今更聞けない、日曜日が休日になった本当の意味と目的は?

いいわけ

澄んだ空、透明な海。奄美の宝。実は、夕方の高速船で種子島に行くはずだった。「明日はどこに?」お昼時の主任司祭の質問に軽く答えたものだ。「種子島です。例のYOUCATです。」「明日帰るんですか?」「そうです。」これも軽く答えた。「明日はザビエルの堅信式になっていますが…。」「エーッ!」思わず飛び上がった。即、種子島をキャンセルしたことは言うまでもない。22日に続くダブルブッキング。「アーア!」いよいよ認知度グレードアップの様相。ダブルブッキング防止ロボットが欲しい!

働き過ぎたのではない

ということで、予習したYOUCATのネット公開となったワケ。「なぜ神は、七日目に休まれたのか?神が創造の業を休まれたのは創造を完成させるためだよ」(#47)。働きすぎて疲れたのではない。創造の業は人間の創造で一応完成する。神さまがイメージされた人を頂点とするこの宇宙の姿かたちとすべての機能は整い一糸乱れることなく自動運行中、という点では完成している。

問題は人間

一休みしかし、人の創造に関しては継続中なのだと思う。パウロに聞いてみよう。たとえ年を取って人のお世話になることが多くなったとしても「私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます」(2コリント4.16)とパウロは胸を張る。内なる人とは、円熟味を増すということだけでなく、どんな局面に立たされても妬まず恨まず、それでも、喜び、希望し、感謝できる人になるということ。そういう意味で、「内なる人」の開発が求められている。

安息日とは

もう一つ、神が創造の業を休まれた「七日目」に注目する必要がある。この文書がつづられた前6世紀、異教世界に住むようになったイスラエルの民の中には深刻な問題が生じていた。「安息日を聖とすべし」(出エジプト20.8-10)という十戒の大切な掟の一つがおろそかにされていたからだ。一週間のうち六日間は自分たちのために働きなさい。しかし、一日は神様のために取って置きなさい。つまり、自分のための仕事はやめて、神に感謝と賛美を捧げ、ふさわしいいけにえを捧げ、そして愛の業を昨年も見た赤い可憐な花。豪雪に耐えて今年も咲き、実を付けた。行う一日にするように。これこそ、神の民の神の民らしい姿。そんな正統信仰が揺るぎ始めていたことに対して危機感を抱いた著者たちが、安息日の意義づけとその復活を願って記したのが「業を休まれた神」のお話、ということになる。

日曜日は安息日、主の日

日曜日も仕事や塾、部活に忙殺されて主日のミサもままならない日本の大人と子供。同じ状況が紀元前のはるか昔からあったことを思うにつけ、なるほど人の完成はまだまだ。「神の思いに寄り添って生きたい」気持ちになって、主の日を優先していく気になった時、人の創造の業が一応完成したと言えるかもしれない。世界中で?当たり前になった日曜休日の習慣。今日の話がモトなんだけど、中高生たち知っていた?大人の皆さん、日曜日が酒の日では健康に悪いよ。

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