神様のお詫び
27日、若い頃憧れていた森司教さんの講演を初めて聞いた。質問にも易しい言葉で答え、誰が聞いてもスッと入る。「この人は自分の信仰を自分の言葉で語っている!」実感だ。印象に残った話しといえば最後の審判をめぐってのもの。「神様は、天国の入り口に立っておられて、頭を下げながら、やってくる人々を迎えておられる。『すみません。大変な旦那をあげてしまってホントにごめんなさい』」離婚した女性に対する神様の言葉だという。すると、「それは教会の信仰ですか、それとも森さんの信仰ですか」との質問が返ってくる。そんな時は、「だって、イエス様がそうだったでしょう」と答える。「放蕩息子を迎える父親は宴会まで開いたではないか。」
福音の色眼鏡で
司教さんとしては、フランシスコ教皇が言う「イエスを外に出さない自己中心的な教会」の問題点を明らかにしようとしているわけで、今の教会は、離婚した人とイエス様との間に壁となってしまっている。「それはおかしいだろう」という教皇の改革路線を敷衍している。確かに、そういう人たちが実際は教会から除外されている現実はある。考えてみると、神様の思いの中で出会って結婚したのだから神様も責任を感じておられるに違いない。司教さんの話は、イエス様が伝えようとしたことを、自然体というか、教会用語を使うことなく、平易な言葉でなされるので魅力的だ。教会の常識というか教会というワクの中で考えるのではなく、徹底してイエス様の目線に立とうとする姿がよく伝わってくる。かつて、浜尾枢機卿が、「福音の色眼鏡で見る」とよく口にしておられたが、同じ路線かと。
神様との対決
生まれつき健康のすぐれない人だっている。その人が、人並みに生活できないからといって不満に思い、家族にも辛くあたり、社会にも背を向けるような生き方をしているとして、神様が知らんぷりしておられるとは思えない。教会の枠の中で考えると、「神様の計らいだから受け容れるしかない」となる。しかし、神様の目線は違う。神様としては、責任を感じるので、彼の耳元で「ゴメンね」と言って謝る。そしてその人が、神様が謝ったと知ったらきっと神様を非難するに違いない。神様は困ってしまって、「ホントにごめんなさい、ごめんなさい」と謝るのが精一杯。どんなに神様をなじっても「ゴメン、ゴメン」を繰り返すばかりでラチがあかない。とうとう彼はしびれを切らして、「このヒトには何言っても無駄!」と苛立ちながら黙ってしまった。
奇跡が起こる
そして、暗澹とした気持ちにかられながら自分の現実に立ち戻らざるを得なかった。「あ~ a」とため息をついたその時、ふと何かが違うことに気がついた。これまでの鬱つうつとした鉛のように重たい気持ちがなくなっているではないか。何かスッキリした感じなのだ。今まで経験したことのない軽やかな感じと言ったほうがいい。それに、周りに対する根拠のない怒りのような否定的感情も消えているではないか。なんだか嬉しくなった。そんな奇跡が起こる。これは、ボクが勝手な妄想だが、あらゆる枠組みを離れて神様と向き合えば、健康が優れないという問題は残るとしても事態は好転していくに違いない。森司教さんに伝えたら、「アンタがそう思うならそれでいいんじゃない」とそっけない返事だった。これも、ボクの妄想。「ミサに行くこともなかった信者が許しの秘跡も受けないままなくなったらどうなるか」という議論をするより、天国の入り口で頭を下げる神様の気持ちをもっと味わうことの方が福音的?
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