当てが外れた(1)
昨年のクリスマスから、今年の復活祭にかけて11名の大人が洗礼を受け、そのうち10名が今日の堅信式に臨んだ。中学生1人を加えて11名。子供が一人でもいてくれると話しやすいので助かった。例によって質問から。「堅信の秘跡とはどんな秘跡ですか?」後ろの席のお母さんに答を確かめたようで、ゴーサインが出たらしく、背中を押されるように口を開いた。残念ながら声が届かず判別しかねたが、どうやらボクが期待した答えではないようだった。
当てが外れた(2)
「大人の信者になる秘跡です。」どこでもこの答えが返ってくるものだが、声の続き具合からすると、もっと長い文章だったようなのでかなりレベルの高い答えだったかもしれない。もし、「大人の信者…」ときたら、大人と子どもの違いを確認してから、「さあ、では今日から大人の信者として…」という流れになるのだが、今回はそんな流れにはならなかった。
説教の下心
というのも、今朝になって、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない」(マタイ18.3)という箇所が思い浮かんだからだ。もし彼女が期待に応えて、「大人の信者…」と答えてくれたら、「ホントにそうかな?」と意地悪をして掛け合い説教を楽しもうという心積りだったのだが。
ガッテン?
掛け合いはできなかったものの、大勢の大人たちが頷いていたので、「大人の信者の問題点」ははっきりしたのかもしれない。いや、話の中心はそんなことにとどまるのではなく、「自分でもみんながハッピーになるための食べ物を周りの人に与えることができるんだ!」と実感することなので、そういう意味で、一斉にガッテンボタンを押してくれたら嬉しいワケ。
子供はみんなの宝
ミサ後の茶話会では広く浅い交流はできなかったが、隣り合わせた皆さんとは高校の後輩との出会いがあったり、飛び入りの分かち合いがあったりとそれなりに楽しかった。今回も教会学校の子供たちが愛らしさを振りまいてくれた。かつての子供たちがお母さんになって総力を挙げて取り組んでくれているだけあって、みんなに愛されている教会の子供たち、という感じで麗しい。こうして、信仰の遺伝子が連綿とつながっていくことになる。だから、そんな期待を込めておめでとう!
フランシスコ助祭節度ある独唱
あ、そうそう、忘れるところだった。フランシスコ助祭が指名を受け、自慢ののどを披露してくれた。窓ガラスビリビリの絶叫調を厳しく戒めてあることから、「静かに歌います」とアリランを一曲。アンコールに応えての二曲目も韓国の歌。しっとりと歌いあげて大喝采。「きっと聖歌に違いない」という勝手な思い込みは「恋の歌」と聞いて一同ガクッ。
説教音声
フランシスコ助祭ソロ音声
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