前置き
本文の全訳はいつになるか分からない。勉強会で配布された試訳をもとに、もう少し書いてみたい。とくに、何十年も関わっているMEにとって教皇の後楯を得たような箇所を紹介してみたい。
「生身の家族は具体的な 悩みと葛藤、喜びと希望に満ちた日常生活を過ごしているが、その現実の中に神は宿っている。家族生活を送っていれば、嘘をつくことも猫をかぶることも難しく…そういった真実の生き方が愛によって促されていれば、そこに主の支配があり、主の喜びと平和が輝く」(#315)。
神様の夫婦たち
夫婦たちと何十年も関わっていると、神様が出会わせてくださった文字通り生身の2人の生き方は、司祭の自分にとって極めて預言的だと感じている。生身ゆえの負の側面に直面しながら、それでも神様と配偶者に対してはもちろん自分自身に対しても正直であろうとする生き方こそ、神様に目をかけてもらった神様の夫婦の姿。これはキリスト者の雛形となる生き方で普遍的な価値を持つものであるが、MEの夫婦たちは祈りと分かち合いという武器を持っているところが 違う。もっとも、どの夫婦も信者であれば祈るわけだが、残念ながら「分かち合い」という取っておきの手法を持たない。
ME夫婦に倣うj
司祭は「祈りの専門家」と言われたりするが、MEの夫婦たちのような正直でありのままの自分を分かち合うのは苦手だ。あんまり大きなことは言えないが、ミサの説教も「イエスについて、神についての教え」になりがちで、2006年だったか、タイで開催されたアジア宣教大会で採択された「アジアの文化の中でイエスの物語を語る」的な自分の信仰を語ることは苦手なよう。その点、地域の集まりでの夫婦たちの、とくに決して饒舌ではない夫たちの分かち合いは時には笑いを誘ったりしながらも真実味溢れるものばかり。つい、司祭も猫をかぶることをやめて自分をさらけ出すことになる。こんなひと時こそ真の教会体験。そんな小さな教会体験の場がME。
終わりのない旅
本書の試訳の講師は次のような励ましの言葉で試訳の草案を結んでいる。「私たちは皆自分を超えるものを目指して歩み続けるように呼ばれている。全ての家族は等しく呼ばれている…。では、家族として(夫婦として*)この旅をともに歩もうではないか。私たちは誓約した時私たちが想像できる以上のことを誓った。私たちの限界のために落胆しないようにしよう。神様が私たちに示している愛と交わりの目標を目指して歩み続けるようにしよう。」*は筆者加筆。
そんな夫婦たちに同伴する旅に終わりはない。
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