もう一人のキリスト
司祭大会初日。4時からの導入は神学校に帰ったよう。テーマは「司祭の根本的な役割」。①宣教司牧の現場での奉仕。これはそのとおりとして、問題は次。②alter Christus (もう一人のキリスト)。神学校で何度聞いたことか。司祭がいかにスゴイ存在かみたいなことを強調するための殺し文、イヤ常套句だった印象だけが残っているが、今日は流石に一味違った。「キリストのものになり、キリストが全てになる。司祭が日々の生活を通して聖化される。キリストを真似するのではなく、自分の中にキリストが現存する喜びを実感する」ことです。パウロが言っているのはそのこと。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2、20)③ キリストは私たちを通して教会共同体に話し、癒し、慰め、励まし、支え、寄り添う。司祭はまさにこれを生きるもの。
司祭の基本姿勢
もう一つ印象に残ったのは、「現代の司祭に求められている5つの基本姿勢。」これは使徒的勧告「福音の喜び」#24から。①率先する人、来るまで待つのではない。教皇は、確かに率先して出て行かれる方ではある。②関わり合う人(心の優しい人)。悪いけど、この箇所の解説は残っていないが、見放したり、突き放したりしないで徹底して関わり続けるのは容易ではない。それができる人がいたらその人は間違いなく優しい人だ。「冷たい人」と言われない程度の関わりがボクには普通のようにある、と思った。③寄り添う人(隣人となる)サマリア人。ボクの場合、②と同様のレベルがせいぜい。
ボクの過越
④実りをもたらす人(蒔かれた土で実る)。これは、かなり直面する価値があると感じた。先日亡くなられたシスター渡辺の「置かれたところで咲きなさい」(だったか)が思い起こされた。脈絡はないが、同時に、僕の2つの出エジプト、種子島時代、志布志時代のことが蘇った。「少なくとも僕は逃げなかった!」思わず力が入った。辛い時ではあったが、「鍛えてもらった時だった!」と心底思う。だから、懐かしい。
それでも
⑤祝う人(福音的な喜びを持つ)。何があっても、「それでも!」と気合いを入れることかなと思ったが、顔が引きつっては喜んでいることにならないから気をつけよう。「司祭であることは、役務だけではなく、何よりも父なる神からの素晴らしい宝物です。感謝するお恵みです。」講師の熱い思いがサメタ司祭たちの心をギュッとつかんだ。司祭は祝う人。ホントにそうだと思う。主の死と復活を祝い、 日々のボクの死と復活を祝う。そして、毎日が主の死と復活の宣言。あの若さで、ここまで言えるとは!決まったところで温泉に行くとしよう。
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