憎しみが消えた
「私は復活のイエスの手に触れた体験があります。」前置きみたいな解説もないまま、臆することなく断言されると禅問答みたいで困惑してしまったが。1988年のフィリピンでの体験が分かち合われた。ルソン島北部のイサベラ州でのこと。日本人シスターたちが働く地区。ミサを終わって祭壇を降りようとしたとき、1人のシスターが突然話し始めた。それは、日本人司祭の捧げるミサに痛く感動したからだった。シスターは先の大戦で日本兵に父親を殺害され、日本人を憎んでいたという。キリストの食卓を共に囲んだことで、シスターの心から憎しみの心が消えた。「私はあなた方を心から許します」と宣言されたという。指導司祭にとって、そのことは、十字架上の主がなされた赦しの祈りを思い出した。そんな洞察が冒頭の言葉となって現れた、ということらしかった。
パリーナでの出会い
その話を聞いて、1983年、やはり北ルソンの村の教会での体験が蘇った。バギオからバスで5時間、さらに徒歩で5時間の村でのこと。村の名はパリーナ。150家族全員が信者。電気水道のない標高1500米以上の高地にあるレグレグという美しい死火山の麓にある。日本兵が北に向かって敗走するときに立ち寄った村で、戦前に建てた聖堂は彼らの宿舎になった。村を離れるとき、日本兵たちはお御堂の床下に火をかけて焼きはらおうとしたが、幸いうまく火がつかず焼けずにすんだ。あれから、38年、初めて訪れた日本からの珍客はなんと司祭。「ケダモノよりもひどいのが日本人」と聞かされていた村人にとっては信じがたいことだった。しかも、「教会を焼きはらおうとしたあの日本兵と同じ日本人が私たちのためにミサを捧げてくれる」ことに涙する人々もいた。一方、ボクとしては、説教冒頭で、「キリストにおける兄弟姉妹の皆さん」と言った途端、「この人たちはボクの兄弟姉妹なんだ!」との思いが全身にみなぎったことを忘れない。
影響を与えた人は?
そして、今日午前中の話は、巻物の2点目、自分の人生に影響を与えた人について。毎週1時間の聖体礼拝の習慣は、最初の主任司祭から受け継いだものだという。ミサは主日のミサだけが当たり前?という小教区も珍しくないというのに、四十数年前とは言え、ご聖体の信心に情熱を持つ司祭がいたことに驚いた。最初の主任司祭が司祭の将来を左右すると言われるのも頷ける。この話で、思い起こされたのは、助祭時代に夏休みの40日を過ごした出水教会でのこと。すでに帰国されたハヌス神父さんの生き方は、信徒と共に生きるというボクの司祭生活の基礎を学んだときだった。
説教音声
*本人の了解済み
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