良い司祭になりなさい
黙想会最終日午前の講話はやはりマニラでの体験。1971年パウロ6世によってアジアから招かれた120名の助祭と共に司祭叙階を受けた指導司祭は、叙階式の前日、すでに父の元に召された那覇教区の中(あたり)助祭と共に神学生の自宅に招かれた。2人の間に座ったのは松葉杖をついた彼の祖父。孫の神学生の話しで、日本軍による拷問の結果だと教えられショックを受けた。身を凍らせている彼をいたわるように「私はカトリック信者。許しなさいということを知っている。孫には口止めしておくべきだった。素晴らしい司祭になってほしい。」心が震えた。指導司祭にとって、復活の主の傷跡に触れた最初の体験。
もういいのです
今度は、ボクの体験だが彼ほど霊的な意味はない。1983年といえば、アキノ氏が暗殺された年で、日本では、いわゆる教科書問題で揺れていたとき。当時、EAPI(東アジア司牧研修所)で学んでいた日本からの司祭シスター11名はある日曜日のミサ後、ある信者さんの家に招かれた。コーラが振る舞われる中で数冊の家族のアルバムが紹介され、みんなで回しながら見せ合っていた。しばらくして、招待主のおかみさんが、突然、「父は日本兵に殺されました」と呟くように言ったのだ。一瞬、おしゃべりが止み沈黙が支配した。1人が口を開いて尋ねた。「戦争でですか?」「いいえ、父は戦争に行ってません。普通の民間人でした。でも、もういいのです。」それ以外のことは覚えていない。
日本の身勝手さが許せない
しかし、ボクの気持ちは複雑に揺れ動いた。というのは、彼女の家の近くには、日本人によって大きな黒御影の戦没者慰霊碑が建てられていて多くの日本人がやって来るということだった。戦後38年、慰霊碑どころか家族以外の誰からも顧みられることもなく、ひっそりと辛い思い出の中に生きる家族のそばを通り過ぎて、戦没者供養に訪れる日本人たち。そんな家族の痛みを知るよしもないのだから仕方がないと言えばそうだが、日本人の身勝手さみたいなものを感じた。それというのも、前述したように先の大戦に関する教科書の記述をめぐる議論が蘇ったからだ。「侵略か侵入か」ということは、家族を失った人々にしてみれば全く意味がなく、身勝手で不毛なこと。そんな議論をしている日本に対する怒りみたいなものがあったからなのだ。この出来事の後でパリーナでの体験となるのだが、この2つの体験が復活の主の傷に触れたとの実感はない。霊的感性が弱いから?
説教音声
*本人の了解済み
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