情けないやら…

創世記一章の書き出しからのイメージだという。修道女連盟ミサ。はて、何のためのミサだったのか。とりあえず、主日のミサの典礼で説教の準備。第一のエレミヤ書も魅力的。「あなたは腰に帯を締め…」戦闘態勢への招きに緊張感が走る。「わたしは今日、あなたをこの国の全土に向けて堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁としてユダの王やその高官たち…に立ち向かわせる」(1.17)。鉄壁の守り、難攻不落。ありがたいとは思うが、勇ましすぎて、やっぱり第二朗読、1コリント12.-13の愛の賛歌にした。

なじみの箇所だが、何度か読み進めているうちに、ふと足が止まった。いや、目が留まった。「愛は決して滅びない」(8節)。ホントにそうかな?愛こそが壊れやすく、実際、身近なところで壊れた愛を沢山見ているではないか。注解書を広げてもピンとこない。読めもしないギリシャ語の原文と辞書を開いた。結論から言うと、「神様の愛は決して滅びない」ことだと分かった。ナットク。

そうなると、4節が気になった。やはり原文を見ると、「愛(大文字)は忍耐強く情け深い:愛(小文字)はねたまない。愛(小文字)は自慢せず、高ぶらない」となっている。パウロは大文字は神様の愛で小文字は私たちの愛を言おうとしている。それはともかくとして、

興味を持ったのは①「忍耐強い」(4節)、②「すべてを忍び」(7節)、③「すべてに耐える」(7節)という三つのことば。日本語では同じような響きでも元の意味は微妙に違う。①は「怒らないで気長く我慢すること」だという。寛容、寛大。ボクに一番難しいのはこれだと思った。②は「口を覆って語らない。」口は災いのもと。これも、思い当たることだ。③は「下にとどまる、下で生き延びる、下で長持ちする。」思わず「オー」とうなった。どうかすれば、隠忍自重ということになりかねないが、これこそ、御自分を無とされて「十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2.8)を貫かれた主の姿そのもの。復活への道は「下で生き延びる」他にない。

ところで午後二時。腕まくりして臨んだミサだったが、ナント、今日のミサは、主の奉献のミサ。アリャ!それでも、たまたま見た奉献生活年のロゴを手掛かりに始めた即席の説教は、当然だが、シドロモドロ。「アーアッ!」ミサ後の茶話会から引き上げるとき、「だから、それでも、なんですね。繋がりました。」予期しないシスターのフォローは「…あれば拾う神あり」?でも、「シスターありがとう。」

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