「教区司祭の霊性を求めて」ということでお話を聞かせていただきましたが、中でもビビッときたのは「神様の本気さ」という言葉でした。今後は、自分ももっと本気になって応えていきたいと思います。もっと上手に言ってくれたのだが詳細は忘れた。いずれにしても、司祭代表のお礼の言葉に涙が出るほど嬉しかった。お礼の言葉なので「つまらなかった」と言えるわけはないのだが、そうではなく、ボクが伝えたかったことを的確に受け取ってくれていることが嬉しかったワケ。それだけ真剣に聞いてくれたというわけだから。ま、ボクが言いたかったのは次のようなこと。
創世記一章の三つの調和が壊れたのは神様との関わりを壊したことによる。自分が神になったことによってすべてが壊れた。この回復の道のりが救いの歴史。その頂点にイエスがいる。司祭も、教皇が言われる総合的回心、つまりこの三つの関わりの深化に加えてありのままの自分と出会う自分との調和を目指すように呼ばれている。自分というとき回心とか心の持ち方だけでは半分。体があっての自分。恵みとしていただいた体はいわば預かりもの。預かったものは大事にしてお返しするのが礼儀。ということで最終講話では健康講座。固形のサプリメントに命はない。命の水を飲みましょう。つまり生きている野菜を。この反応はいまいちだった。
後輩たちの中には初めての顔も多く、司祭団の層の厚さに驚いた。黙想会は人数が多いので二手に分かれて実施するのが習わしだという。同期の司祭の顔が見えなくて少し寂しかったが、恐らく「同級生がいては話しにくかろう」と気を利かしたものと思われる。7階建ての司教館の何階だったか忘れたが、「派遣司祭居室」だったか、そんな風な名称が気になっていた。大司教さんの話で分かったことだが、教区外に派遣している司祭が10数名もいるそうで、彼らが帰省した時のために用意されたものだという。10数人の派遣にも驚いたが、帰った時の住居まで配慮するとは!翻って鹿児島を見るに、1人派遣していることに満足している自分が恥ずかしくなった。
三時半ごろ帰館。8日ぶりの我が庭園では大輪のアマまりリスが迎えてくれた。
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