サワダケンジがどうした!?
「サワダケンジがカトリック信者というのは本当ですか?」「知らんよ」「司教さんなら知っていると思ったので」「そんなのワシが知るか!」「あ、どうも。ハイ」かつての小教区での主任司祭という気安さがいまだに継続中-人々の中の司祭を実感させてくれるのでそれはそれでいいのだが-のA君は、気になることがあると、事の大小を問わず、すぐに電話をかけてくる。時には真剣な悩みの場合もあるが、今回のようにたわいない、しかも唐突な質問が多い。その時は、こうした決着のつけ方がいつものパターン。それでも、メゲズニ?かけてくるのだから悩ましい。「ま、いいか」で済ましていのだが。
講話集の力
今朝読んだフランシスコ教皇の講話集に次のようにあった。「知恵のある者とは、…何が神に由来し、何が神に由来しないかをわきまえる人です。」「お母さんが、こどもたちをがみがみ叱ることは上智でしょうか。もちろん違います。」「優しく『こんなことをしてはいけませんよ。なぜなら…』といって諭し、忍耐強く説明するなら、それが神の上智ではないでしょうか。」(以上2014年4月9日サンピエトロ広場にて‐秘跡 聖霊のたまもの 教会‐教皇講話集65頁)
教皇の知恵
堅信の時に受ける七つのたまもののうち最初のたまものである上智についての解説が興味深い。「(知恵は)すべてのことを神の目をもって見ることのできる恵みです」と説いた後で、具体的に言えばということで上記の解説と具体例が示されている。教皇の話の特徴は、解説を解説で終わらせないところ。教皇文書の中で最も権威のあるという回勅にしてもそうだ。とくにラウダート・シの構成もそうなっているので読みやすい。フランシスコ教皇の知恵?
ドラエモンじゃないので…
それはともかくとして、A君への応対の仕方は、教皇に言わせると「神の目で見る態度とは言い難い」ということになりそう。近頃、公共の場での放送に「ムッ」とくることがなくなったので、自分のセイチョウをヨシとしていたのだがまだまだ先は遠いことを実感させられた朝の読書だった。でも、やっぱり叫びたい。「ワシはドラエモンじゃないぞー!」いや、「ボクはね、ドラエモンのように魔法のポケットは持っていないのでゴメンネ。」
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