信者は先を行っていた

司祭大会のミサ

家庭の召命と使命。シノドスのテーマは極めて今どきのイシュー。結婚と一口に言っても、その実態は把握に難い。同性婚なる言葉がでる時代。

バチカンでなくても苦慮するのは日本の教会も他人事ではない。単に社会問題としてだけでなく信者にも普通に見られる出来事だけに「信者にとって」となると一筋縄ではいかない。こじれた結婚は教会にとってもお手上げ状態。教会法を持ち出して済む問題でもない。

現実には、「教会法上許されない」ということを当事者も心得ているだけに、司祭が寛大になればなるだけ教会当局の司祭に対する不信が高まることになったりもする。長い間、掟のもとに真面目に生きてきた教会にとって規則違反は懲罰の対象。つまり、秘蹟に十全な形であ与かる事はできない。ご聖体拝領ができないという現実がつきまとう。名案がないまま忍従を迫られることになる。

「司教さん、彼は信者の奥さんと別れても日曜日のミサにきています。もちろん、ご聖体拝領はしていません。信者たちは『どうしてご聖体拝領ができないのですか』と聞きます。ずいぶん時も立っているし、どうでしょうか。」主任司祭からの問い合わせに、専門家に相談することも無くゴーサインを出した。後からの奥さんも洗礼を受け、教会共同体にすっかり馴染み、極めて穏やかな熟年カップルとして幸せな生活を送っている。

今年秋に開かれる世界代表司教会議で取り上げられる課題の予習ともいえる今日午後の講義。「なんだ、それならボクはとっくにやってる」というのが正直な感想。フランシスコ教皇の考えは、どんな状況の中にあっても断罪ではなく福音の価値観に立ち戻って、個々の事例をみないといけないというもの。しかも、地方教会の司教の判断に任すほうがいいという主張が出るほどに、自由闊達な討議が期待される今回のシノドス。教会がこれまで、いわば、お手上げ状態だった具体的な事例に踏み込むことになるかもしれないという期待が高まる。

「神様は男の体に女の魂を下さいました」と訴えるように語った青年のことが忘れられない。ホモという一言で白い目で見られていた人たちが教会の中で市民権を得るとき教会は本当の意味で“キリストの教会”になるのかもしれない。少なくとも、誰かが“排除されている”と感じる現在の教会はホンモノではナサソウ。

秋が待ち遠しい。

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