昨日の続きだが、フランシスコ会訳が気になって開くと、「…あなたの道を教えてください。」あれ、フランシスコ会訳らしくないな。
そういえば、この聖書、前にもガッカリしたことがある。大好きなザアカイさんとイエス様との出会いのシーン。
「…そこでザアカイアは急いで降りてきて喜んでイエスをお迎えした。これを見た人々は皆つぶやき、…しかし、ザアカイはすっくと立ち主に向かい、…」(ルカ19,6-8 1997年版)。ザアカイさんが胸を張ってスックと立ち上がる姿が目に浮かぶではないか。
しかし、2011年版になると「ザアカイは立ち上がり」となってスックがない。同じ立ち上がるのにもいろいろある。「どっこいしょっ!」という痛々しいのや「いやいやながら」もある。中には、人目を忍ぶように「そーっと」もある。聖書はただでさえ読みづらい本だ。せっかくザアカイさんの心意気を示すようなスックを省いたのは惜しまれる。
いつもは「罪びと」と後ろ指を指され、お茶に呼ばれることもなく、木の上でひっそりと見下ろしていた淋しい小男がスックと立ち上がって仁王立ち。そして、「あの人は罪びとの所に行って宿をとった」とつぶやく村人たちに顔を向け、手を伸べながら「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します」と、まるで啖呵を切るように勇ましく誓うザアカイさん。思わず「イヨッ、ニッポンイチ!」と声をかけたくなるではないか。そんなドラマは「立ち上がった」だけでは生まれない。
それはそうと、話を戻すと、昨日の「神よ、あなたの道を示し、あなたの小道を教えてください」という名訳は出所不明。典礼で使用されている新共同訳は「…あなたに従う道を教えてください」となっている。どうでもいいのだが、手元の英語の聖書には小道に相当するpathが使われている。「pathは人や動物が歩いてできた道」(ジイーニアス英和辞典)。英語の聖書も道と小道を使い分けている。
いずれにしろ、「あなたに従う道」には違いないが、緊張感漂う道という印象。「小道」は詩的だしなんだかホッコリする。そんな道こそが欲しい。
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