他にも自称応援だがいるかも
そんなわけで、応援団の一人とした。実は紫原教会には鹿児島支部があるのでここ奄美でもと思ったワケ。鹿児島では読書会をやっているが、ここではひっそりと教皇の講話集から気まぐれに拝借して書く程度のことしかできない。
最新の講話集10より
記事は受難の主日に関するもので、季節的に外れているが、教皇の「その時イエスは言われた。父よ彼らをお許しください。自分が何をしているか知らないからです」(ルカ23,4)に関する指摘は通年有効。
「言われた」の元の形はいわゆる未来完了形で、ある行為が繰り返し行われていることを表すもの。だから、「言い続けた」が正確な訳になる。「父よ彼らをお許しください、お許しください、何をしているのか知らないからです、何をしているのか知らないからです。お許しください……」
「言われた」だけでは単なる事実の確認に過ぎないが、息を引き取るまで、息絶え絶えながら何度も繰り返しておられた状況が目に浮かぶではないか。やっぱりイエズス会。
とっくに読んでいたのに、14日の十字架称賛の祝日には思い出すこともなかった。今後は、十字架に触れるたびにこのことに触れたい。
十字架は勝利への道
ともあれ、十字架上での主の最後をこのように観想するなら聖書の庭の植物たちのように二度も台風に合いながらも活き活きと生きていける。そんな希望が湧くではないか。足が弱っても心は活き活きと世界の人々を元気づける教皇の秘密がここにある、と思うのであやかりたい。
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