暮れなずむ町の光と影の中…思わず口ずさみたくなる少しオセンチにもなったプチ巡礼

前倒しもいい

こどもたちと何度も来た思い出の公園

こどもたちと何度も来た思い出の公園

前倒し三点プラス一。①メリークリスマス。②洗礼おめでとう。③教会復帰おめでとう。そして、親友のけがで痛めた膝の快気祝い。親友夫婦が「私たちも郡山さんの教会の信者になる」気になって5カ月?シスターによる要理クラスも「急がず」をモットーに順調に推移しているようだったが、二人の話をもとに判断するに、「復活祭の頃かな?」ところが、主任司祭は「いやクリスマス。」「エー早いね。でもよかった!」「年取っているので時間をかけることもあるまい。」きちんとした人の予期しない太っ腹に驚いた。ともあれ、「気持ちがあれば十分」というのであれば正解だ。

恵は主から

すべては主からこの日新たに

すべては主からこの日新たに

若いころ、「要理」という言葉にこだわったのは、「理解」は頭のレベル、信仰は頭を超えたことなのでみことばによる準備こそ一番。というわけで、ひたすら聖書のエピソードを中心にクラスを持ったものだ。しかし、ある時、「七つの秘跡はきちんと教えなさい」という前任者の注意を受け、「それはそうだ」と自分流からアッサリ「要理書」に戻ることにしたという少しほろ苦い体験もある。ともあれ、ダンナが信者というもう一組の夫婦も親友夫婦と同じ団地の仲良しということでシスターのクラスメートに。喜んだのは、信者とはいえ、所属教会も定まらず、どちらかと言えば「教会の床を傷めない」程度の信者を自認するダンナ。シスターにたくさんの質問をし、沢山の正解をもらうことでチョロチョロの信仰の灯りが俄然勢いを増した。「ボクもう一度ガンバル!」気になったダンナに啓発された奥さんも「アタシも!」と気持ちが固まった。こうして、結果的に親友夫婦は信者になる前から「宣教活動」を実践したことになった。もちろん、二人にそんな意識はなかったと思われるが、そうであればなおのこと、「宣教活動は神様のワザ」、つまり「恵み」であることを実感。

すべてが恵に

幼稚園の先生たちの手で飾られた

幼稚園の先生たちの手で飾られた

ということで、親友自宅での冒頭のお祝いとなったワケ。翌日の昨日は、彼が7年、ボクが5年務めた志布志にドライブ。車中ではロザリオの実践、教会到着後は主任司祭の介助を受けながらミサの実践。図らずもプチ巡礼となった。十数年ぶりに子供たちとよく行った清水の涌く高下谷(こうげだに)公園も散策。懐かしい志布志の町を後にしたのは西の空が茜色に染まる頃。信仰の故郷に戻ることができた親友の友人の喜びがなつかしい思い出の一杯詰まった地に戻ることを促した、ように思えた。すべてが恵に変えられていく。そんな思いを新たにした一日だった。早めの就寝にも関わらずいつもの時間まで熟睡できたのはプチ巡礼の実りかと。

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