お坊さんもスマホに夢中
テーマは「明日の教会に向かって」…を目指して、でなく…に向かって、がいい。気負った感じがしない。阪神淡路大震災の時、「司祭はミサと赦しの秘跡だけしたらいい:」と聞いたものだが「イエスはそんなことはしなかった。」身の回りの現実を客観的に見て、自分が何をすればいいかに気づくことが大事。時々熱心な信者から「信仰を深めたい どうしたらいいんでしょうか」と聞くことがある。祈りの中で自分で気づかなければ変わることはできない。自分の欠点にしても、人から言われたら腹が立つだけ。
宣教なしの教会❌
宣教神学の基本原則というのがある。①教会が宣教を所有しているのではない。ここで、教会から手が伸びて宣教を掴み取っているイラスト。この考えだと、この手を切り離しても教会は存在している。しかし、教会は神から派遣されたイエスによって立てられ派遣されているので宣教そのものといえる。だから、宣教なしの教会は存在しない。教会が宣教そのものとは「私が教会、つまり私達信者1人1人のありようが問われている」ことになる。人ごとではない。
多勢に無勢
そこで、信徒使徒職ということになるのだが、教会はいまだに信徒の教会になっていない司祭中心主義。1549年以来、教会は父親と子供の関係を生きてきた。そのことに違和感を覚えることもなく当たり前のように生きてきた。しかし、公会議が教会を神の民としてピラミッド型から同心円的な教会のイメージを打ち出した時、多くの司祭が辞めて行った。司祭としての立ち位置が見えなくなった。そうして、「開かれた教会作り」のもとに、1987年 NICE one開催。「日本の社会とともに歩むといっても43万人の信者で日本の社会にどう立ち向かうのか」多勢に無勢。
かけ離れている
ともあれ、当時と信徒数がほぼ同じというのはどういうことか。発展しない理由は何なのか。いわゆる、バタ臭いから。細かく言うと、次の諸点が考えられる。①日本人の風俗、習慣からかけ離れている。子供の頃のアメリカ人宣教師たちの生活ぶりは間違いなくそうだが、今の我らが生活ぶりは余りにも家庭の臭いがしないという点ではかけ離れている。それが発展しない理由?②西洋的教義中心主義。悩ましいところだが、旧約時代の十戒から教会法典に発展したのがいけなかった?③孤立した特殊な信徒集団。確かに特殊だとは思う。ミサや他の秘跡を誰とでも共有するわけにいかない。④閉鎖的な共同体意識。創価学会では誰かが店を開くと皆んなで押しかけ、固定客がつくまで応援するという。カトリックは足の引っ張り合いが多い。体験がないのでなんともいえない。今日はこれまで。*講和のメモと感想が混在している。
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