再び新福音化モンダイ
新福音化推進委員会。新福音化という表現は、教会の中で市民権を得ているとは言い難い。新しい福音宣教といえば、言葉としては、すっとくる。ともあれ、「聖霊が全てを一新する」という視点に立ってなされる宣教のこと。それでもピンとこないが、福音宣教といえば、いかに福音を効果的に宣べ伝えるかという方法論が問題になる。その際、聖霊の自由闊達な働きへの思いが希薄になる可能性が往々ににしてあるものだ。新福音化という時、この視点こそが大切だというのが今回強調されたこと。
分かち合い
そこで、会議最終日の今日は、「日本の現状を認識しながら①今1番必要とされていることは何か②それに応えるための最初の一歩は何か」について、3グループに分かれての意見交換。ボクの言い方だと“分かち合い”。「直接、関係ないようにも思うが、昨晩の会食からのバスの中から見た高層ビル群はどれも煌々と明りがついていたことにショックを受けた。あの人達の家族は壊れているということではないのか。なりふり構わず働いた高度経済成長期の姿と何ら変わっていないのではないのか。働き方改革を提唱しても、ましてや、福音を説いても虚しい感じがした。」正直な感想を述べた。
はじめの一歩①
初めの一歩を巡っては、2点心に留まった。1つは学校教育。毎日何百人、何千人という若者がやってくるミッションスクール。遠慮することなくカトリックらしさを打ち出していい。ボクとしては幼稚園のことが思われたので、朝礼での感動的な朝の祈りについて紹介した。皆んなが興味深く聞いたので、かえって刺激された。幼稚園の宣教的価値をもっと強調したいと思った。「ある親子が、部活のために主日のミサに行けないことで話し合い、『日曜日はミサに行くので休ませて欲しい』と先生に話すことにした。そんな願いを先生は快く許可された。」親たちが信仰の価値をしっかり認識しておく必要がある。実は、先生たち自身もそうした価値観というか、精神的なものの必要を感じているのではないか。という話も印象的だった。部活に振り回されない信者の家族。頑張って欲しい。
はじめの一歩②
新福音化ということで、もう1つの切り口は「いまだから若者」。「少子化で…」と下ばかり向くのでなく教会学校の子供達との継続した関わりは大事。ミッションスクールとともにカトリック幼稚園の宣教的意義を再認識。少なくとも、吉野幼稚園の先生たちを見る限り、聖霊の働きは明白。朝礼でなされる祈りの雰囲気に満ちた朝の祈りは、単なるルーティンを超えている。子供達は可愛いのでそればかりを追っていたが、今後は先生たちの中で働かれる聖霊を追ってみたい。*以上、昨日帰りの機内で書いたもの。
ブログアップのゆとりもなく、95歳の現役助祭の奥さん帰天の報に慌てて徳之島へ。さすがに暑いが、窓から吹き込む風は気持ちがいい。6時の通夜まで一休み。
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