聖アンブロジオは4世紀の終わりに活躍したミラノの司教。彼はもともと信者でもなかった。彼の人徳にひかれた人々の熱心な願いで司教に推薦された。急いで洗礼を受け、司祭に叙階され、そして司教に。誕生して300年かそこらの若い教会が細かな規則に縛られることのないおおらかさというか、奔放なまでの自由の気風に満ちていたことがうかがわれるエピソードだ。
なぜこんな話をしたかというと、昨日の受難の主日、種子島教会に呼ばれたのは、実は堅信式のためだった。受難の主日に堅信式とは前代未聞、ではないかと危惧されたからだ。枝の祝福をしたり、エルサレム入場の賛歌を歌ったり、長い受難の朗読がなされた後での堅信式。なんとなく、そぐわない感じがする。式そのものがグジャグジャになるのではないかと危ぶまれたのだが、意外とすんなり行ったことに驚いた。いや、堅信式は受難の主日に限る。
それというのも、典礼的にはイハンかもしれないが、堅信の秘跡を、”信仰の原点に立ち返って「大人の信者」への一歩を踏み出す日”と理解するなら主の受難の記念はかなりインパクトがある。外でもないフィリピ2章6節-11節。「キリストは、神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。…」
詳しくは音声に譲るとして、印象深かったのは、一人の高校生のために共同体が一丸となって堅信式を待ち望み、司祭と協力しながら準備にあたったこと。しかも、代父は30年ほども前に家族で洗礼を受けた時の小学生。今では立派なまとめ役。それに、やはり当時小学生だった女の子が三人のお母さんになり、車椅子のご主人を伴って、子供達ともどもミサに顔を出したこと、また、当時ほんの幼児だった女の子がオルガにストとして奉仕していたこと。信仰の伝達をこんなにも鮮やかな姿で確認できたとは!
持ち寄りの御馳走で乾杯したのは言うまでもない。小さな島の小さな共同体の大きな喜びと新たな旅立ちの昨日は復活祭の前倒し。主の復活は十字架上で始まった。改めて確認した一日だった。
コメント