2007/06/27
朗報二つ
作成者 admin
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投稿日
2007年06月27日 22時28分
最終変更日時
2007年06月27日 22時28分
難病に苦しむ同僚の木村神父さんが久振り我が家へ。といっても、数時間の帰宅では会ったが、病院を出たのは六ヶ月ぶり。痛みの原因も解明できたようで、長いトンネルからようやく抜けられそう。
神学4年生の時、自転車事故で一月ほど入院したときのことが思い出された。灰色の天井を眺めるだけの日々。退院の日、全てが色鮮やかで外界がこんなにも美しかったのかと感激したのを覚えている。木村神父さんも同じ体験をしたのかもしれない。ともあれ、とにかく早い回復を祈るばかりだ。
朗報その2。マニラの伸子さんが鹿児島にゆかりの聖母像を巡って奔走している。和服姿のマリア像もあるとか。また、
- 鹿児島から運ばれたマリア様なら、鹿児島に返すべきだ
という支援者?の司祭も現れたり、にわかに現実味を帯びてきた。列福式が来年になったことから、まだ十分時間はある。それまでに、何とか「返還」までこぎつけることができるといいのだが。
原稿にMEトークに面談。今日もいろいろあった。
明日はいよいよ徳之島上陸。今日の走りで、10日も間を空けたツケを払うことになった。当日までには何とか元に戻したい。先週泊めてもらった母間教会にまたお世話になろう。
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「返還」などとおっしゃらずに…(マニラの聖母像)
前回も書きましたが、神のものは神に、マニラのものはマニラに置いておけばよいと私は思います。私がご提案申しあげたのは、あくまでも短期間でいいので「お借りしてくる」ということですので、いま一度確認しておきます。
(前回記事:2007/05/27 聖霊降臨堅信式 http://sdemo.net/pken/Blog/070527 )
日本と彼の地においては太平洋戦争のこともあります。そもそも旧日本軍がフィリピンを占領していなければ、サント・ドミンゴ教会も破壊されず、またレオ税所の遺骸も行方不明にならずに済んだと思われます。
当時の現地司令官は、あの「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文大将のようです。彼は市街地が戦闘に巻き込まれるのを避けるために、マニラの無防備都市(オープン・シティ)を宣言して司令部を郊外の山中に移しましたが、岩淵三次海軍少将指揮下の海軍と陸軍の混成部隊はマニラに取り残され(※)、マッカーサー率いる米軍との間で激しい市街戦を行ったようです(※残った部隊は司令官の方針に背き徹底抗戦を唱えた、との説もあり)。
この戦闘(マニラ市街戦)は「マニラ大虐殺」とも呼ばれ、10万人以上の市民が犠牲になったとする説もあるようです。たとえば聖パウロ大学で市民約1000人を虐殺し、市内各所の教会などを爆破したのもこの旧日本軍の残留組による行為のようです。犠牲者の数はともかくとして、南京あたりの件よりも信憑性の高い情報のように思えます(余談ながら、あの小野田寛郎元少尉も、この時現地で情報将校を務めていたようです)。
この歴史を踏まえれば、郡山司教はカッコつきでお書きになってはいますが『返還』などと軽々に口にすべきではないように思います。日比両国間の掛け橋となるならば、むしろ現地に置いておく方が望ましいのではないでしょうか。その理由をさらにいくつか述べます。
(1) その後400年間、現地の人から「日本の聖母」として親しまれているらしいこと。
(2) 日本に一定の期間(約11年間)あったとはいえ、当時のスペイン領フィリピン総督
(知事)から、ドミニコ会宣教師に贈られたものであること(つまりはドミニコ会
の所有物)。
(3) 鹿児島(甑島と川内・京泊:1603~1609年)ばかりではなく、長崎にあった期間
(1609~1614年)の方が一箇所としては長いこと。
(4) その長崎では教会遺構は「サント・ドミンゴ教会跡資料館」として整備され、
「長崎の教会群」のひとつとして世界遺産への登録を申請中であること。
(5) 長崎代官であるにも関わらず、家族ぐるみで信徒となった村山等安(東安、当安)
がさまざまな形で宣教師たちを支援していること(ドミニコ会以外も含む)。
・複数の教会用地を寄進/息子は司祭に/代官夫妻が迫害への抗議行進に参加/
1614年10月のキリシタン国外追放時も偽装工作を主導し宣教師を匿う…等
・村山等安も息子が宣教師を匿ったかど等により幕府から処刑されている
・サント・ドミンゴ教会跡地は、村山を訴えた後任の代官(末次平蔵政直)屋敷に
(6) ならば「日本へ戻すなら、長崎がよりふさわしい」という話になりはしないか。
「“それでも”鹿児島に置いていいよ」とマニラや長崎の関係者が言ってくださるならば、その時は京泊天主堂の後身でもあり、永年にわたって先人達の顕彰を続けてきた川内教会で預かれるようにご配慮くだされば幸いです(川内教会の皆様が引き受けてくださればの話ですが…)。故ヴィーデンマン神父もお喜びになるでしょう。
ついでながら、パリ外国宣教会の神父たちにより、明治以降に鹿児島県で最初に教会堂が建てられたも川内の皿山のようですね。皿山という地名は、レオ税所の殉教地である平佐に隣接する天辰町にあるようです。もしここだとするなら、現在その天辰町には鹿児島純心女子大学がありますので、縁(えにし)というものは興味深いですね。
関連ページの紹介(ご参考)
参考:
長崎市の文化財:サント・ドミンゴ教会跡資料館
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/bunkazai/sisetsu/santo.html
長崎新聞:めざせ世界遺産「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」
http://www.nagasaki-np.co.jp/press/sekaiisan/
長崎新聞:めざせ世界遺産:サント・ドミンゴ教会跡 (※動画あり)
http://www.nagasaki-np.co.jp/press/sekaiisan/08/index.shtml
【第183号】 サント・ドミンゴ教会跡資料館オープン
http://www.mirokuya.co.jp/mlmag/archive/vol183.html
「ナガジン」発見!長崎の歩き方
http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0504/index.html
http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0504/index1.html
http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0504/index2.html