パウロの原点
送られてくるいくつもの英字の月刊誌の一つに何故か今日はゆっくり目を通した。WYDのことパウロ年、小さきテレジアの両親の列福のことなどなど。
「私が生きているのは、私を愛し、私のために身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2.20)。「これこそパウロの活動の原点をなすもの。」パウロ年の始まりにあたってベネディクト16世が話された。さらに教皇は、このパウロの証言が意味しているのは「私パウロのため」というキリストに愛された個人的な体験だったと指摘された(30Days誌N6/7 2008より)。
確かに、「神様は私たちを愛しておられる」と決まり文句みたいに言うのではなくて、「この私ケンジロウのため」とか具体的に語ろうとすることは神との個人的な親子関係をより身近なものにすると思われる。それはそうと、パウロのように、ボクの原点といえるものはなんだろう。
少なくとも、神学生時代自信を失いかけたときかろうじて永らえることができたのはヨハネの言葉だった。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」(ヨハネ15.16)。たとえ後日「騙された!」と思うことがあったとしても、「イエス様に騙されたのだから、まいい!か」といって生きていけそうな感じがしたものだ。
二年前の叙階式を知ったマレーシアのMEの仲間からおめでとうのメールが入った。「神様の冗談だと思う」と少しふざけて返事したらすぐさま返事が来た。「神様の選びは完璧!」あの時僕の気持ちをぐっと引き締めてくれたもっとも力ある言葉だった。今も時々この言葉が蘇る。いずれにしろ、ヨハネのこの言葉は、誰にしろ、いわゆる奉献生活を送っている人々の原点と言えるかもしれない。
しかし、先の二回の教区評議会での分かち合いは「信徒たちの原点」の分かち合いだったのだと思えてありがたみが増した。だからなにも、生きる原点という点に関して言えば、いわゆる奉献生活者だけのことではない。みんなが原点を持っている。だから、分かち合いに意味がある。
遊歩道から国道に出た時点でマスク使用。排気ガスも平気のヘイザ。いつもの十キロコースをショートカット。朝日通りからいづろ・天文館を経て帰館。輸入ワインが安くなるとの情報に待ってましたとばかりに楽天で購入。今日届いた。2000円ほどのワインが800円ほどで。5日の例会用を試飲。純粋のぶどうではなさそう。口の肥えた仲間が見破った。僕は満足。テレビは相変わらずオバマ優勢。
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