司祭大会最終日
「はじめにことばがあった」というヨハネの書き出しが意味することとは?こんな命題を解き明かすためのキーワードが「飢え渇き」。
ヤコブの井戸で出会われたサマリアの女こそが人間の深い飢え渇きの生きた姿。まるで推理小説の世界を地で行くような、と言えば語弊があるかもしれないが、一つ一つ丁寧に謎解きをしていくような組み立ては、聞くものをして飽きさせない。理屈の羅列ではなく、覆われてしまっている人間の深みに分け入るための道筋をつけてくれる愛の執刀医と言ったほうがいい。人ごととしてではなく、自分のありのままの姿を優しく開示してもらっているようだった。
そんな私のというか、人間の根源的飢え渇きは四つ。話された順に紹介したい。まず「柔らかで、棘のない、暖かなものに包まれたい」という飢え渇き。温泉にどっぷりつかったときのホッとした感じを連想したが、胎内の赤ちゃんの状態が紹介された。この母子の関係こそ人間の究極の願望が満たされる「私の居場所」。ぞっとする堕胎現場の話も紹介されたが胎児でも緊張で身を固くするのだという。生まれた後の環境はどうか。子供が緊張する環境だと根源的飢え渇きは満たされることはない。
二番目は「かけがえのない存在として認められたい」という飢え渇き。ボクに馴染んだ言い方をすれば「ありのままの自分で愛されたい」ということか。できるできないで図られるのでなく丸ごと認められたいという願望は根源的で深いものだ。
たとえ、この二つの深い飢え渇きが満たされなかったとしても、「人に触れたい。つまり心に触れたい」という渇きが満たされれば生きる力が湧く。これも具体例が出されたが敢て割愛するとして、心がつながれば人間らしい心が戻り新しい歩みが始まるのは具体例を挙げなくても大なり小なり誰もが体験することだ。
イエス様は人間をこんな風に見ておられたのではないか。そこで出てくるのが信じるということ。それは「絶対確かだと思う人に裸になって飛び込んでいく行為」であって、「相手が豊かであればあるほど自分も豊かになる。」その典型的姿が母親と赤ちゃんの関係。
この対極にあるのがイエス様がヤコブの井戸で出会ったサマリアの女。彼女は、6度目となる男性遍歴。心から信じてありのままで飛び込んでいける人との出会いがなかった。それでも探し続けている。イエス様はそれを咎めるのでなく、彼女の満たされない出会いへの渇き、つまり真実の心に触れたいという飢え渇きを、何とか満たしてあげたいと思われてことばをかけられた。ここに冒頭の命題に対する解が見えてくる。すなわち、ヨハネにとって言葉は、学問的研究の対象ではなく、真実の「出会いを育て完成していく手段」。
聖書でことばは音になる前の思いをいうのだと学んだことを思い出した。イエス様は、人間を何とか救いたいという神様の思いを見える形で実現される方として、サマリアの女の前に立たれた。だから「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」となる。なるほど!
お昼の後希望者6名で拝山(標高125m)散策。市内が一望できる。早速、iPhonで全景をYouTubeにアップ。日本復帰の記念碑もあった。
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