余韻に浸りながら
司祭の役割とは?信徒の時代といわれて久しい。当初は、司祭が次々と仕事を奪われていくという被害者意識的発言が多かったように思うが、今では、信徒の時代はすっかり定着したかに見える。
もっとも、教会において聖職者の存在感は依然として大きく、小教区の雰囲気は主任司祭次第という現実は変わらない。そういえば、信徒の徒にはあまりいい意味がない。徒労、博徒。信仰が徒労に終わるのでは話にならないが、まして、信仰者のイメージが博徒を連想させるなどもってのほか。また信徒を意味するラテン語のライクスはドイツ語からきているそうだが「素人」という意味だという。司祭はプロ、信徒は素人、ということになりふさわしい用語とはいえない。
ともあれ、司祭が司祭として心に留めておきたいことは、イエス様が12人を選ばれたとき「神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6.12-12)ことだ。徹夜の祈りをされたというのだから12人をお選びになるということが、イエス様にとってどれほど重大な出来事だったかが分る。
旧約聖書には預言者という役職はあるが、使徒という役職は出てこない。ここにイエス様の新しさがある。マルコの選びの箇所では「派遣して宣教させ」(マルコ3.14)とあるので、遣わす者と遣わされる者という構図で教会は存在することになる。もっと言えば、「人々の痛ましい姿を見ていたたまれなくなった神が何とかしなければといって遣わされたキリスト」が12人を遣わされた。遣わす者の意図に従うことで遣わされた者の存在理由はある。遣わす者の意図にそぐわないなら遣わされた者の存在理由はないことになる。
だから「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」(マタイ16.26)ということになる。遣わすお方としてのキリストの意図に従うことこそわが命、なのだから。そんな重大な役割を司祭に果たしてもらうためにキリストは今も終わることのない祈りを捧げておられるのだ、と思う。我らが主もノベナの祈りの愛好者だと嬉しい。二番煎じとはいえ、講師の意図からずいぶんかけ離れたものになってしまった。講師の人間的優しさから紡ぎだされたぬくもりに満ちたメッセージの数々を、自分なりの「福音伝承」となることを願いながら暖め続けて生きたい。
5日ぶりの鹿児島は雪。冷蔵庫だが室内は16℃。
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