新風吹く
子供の頃司祭に憧れた少年がいた。15歳で島を離れて50年。今では、二人の子供を育て上げ、定年を迎えて数年。司祭職への思い捨てがたく上智大学神学部へ。そんな彼を神様は子供の頃出会った司祭を通して奄美へ呼び戻された。しかも、終身助祭という身分で、司祭を助け祭壇に奉仕し、信者に奉仕する教会の働きの中枢に招かれた。
念願かなって今日叙階式。訓話を聞いて奥さんは驚いた。「そんなことだったとは!」「ま、ま奥様ご安心あれ。あなたの旦那はあなたを捨てたのではない。家庭と教会両立保障。」そうは言っても・・・。そんな身内の不安を宥めるかのように、出身小教区や多くの友人たちから数々のエール。それにしても、初めて直面する旦那の第三の人生のスタート。感動というか戸惑いというか、事の重大さに直面した心境は複雑。
一方、「すばらしい叙階式でした。」何人もの人の感想。確かに!まず、靴を脱ぎはだしであがったのは、「モーセよ、モーセよ。・・・ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(出エジプト3章)にならう。「心の貧しい人は幸いである。・・・」記念のカードのみことばに通じる彼の霊性。しかも、彼のために特別に作られた賛美歌は「からの手で」。花束を受け取るときの彼の姿に如実に表れていた。ひざを折り、身をかがめ、実を低くして受け取る姿はまさに貧しさの体現。
式後のパーティーでは、彼がいかに多くの人々の友であったかを納得させるような顔ぶれが紹介された。その中に、数十年ぶりに出会った人もいたりして感慨ひとしお。ミサには、彼の中学時代の仲間(ボクには高校時代のクラスメート)も駆けつけ一人一人bに祝福の按手ができたのは嬉しかった。夕方6:00。仲間との夕食会。
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Re:新風吹く
音声とお話を読ませていただいて、日々、生活する中で、自分の弱さを見るとき、つらい事があります。でも、神様のお恵みは、それに打ち負かされる事無く、清い、聖なることに、心を向けて、小さい歩みを続けていこうと思いました。弱さに躓くときにも、私に出来る、教会の奉仕ができるとき、とても、元気が出ます。これからも、神様と共に歩めますように!!!
Re:新風吹く
そんな可能性は皆無だろう。各教会の日曜学校リーダーは、そこまで馬鹿ではない。
そんな事よりも、問題なのは、聖書・聖なるマリア様への冒涜を神父である聖職者が信徒へ語っているという事実なのだ。
郡山神父様の「皆さんの怒りが相当のものであることを知って驚いています」
「ボクは、人を罰したりとか、とがめ立てが苦手なので。「小さくされた」方々が神父さんのお陰で元気になっているのも事実のようなので・・・。」というお言葉に私は驚きます。
小さくされた方々がど釜が崎の浮浪者を指すのかどうかは存じませんが、それでは、本田神父の言葉に傷つき嘆き、教会に幻滅し体調まで壊す敬虔な信徒たちが元気をなくすことは、
問題ではないのでしょうか。郡山神父様が御自身が苦手だとかよりも真に信徒の事を思うならば、行動するべきではないのでしょうか。
また、あんとに庵という方は、宣教に命を賭けた人々の事をゴキブリ呼ばわりするような記事を書かれていますが、宣教師をゴキブリと例えるのと、イエス様をレイプの子と例えるのも、同じ様に酷い事ではないでしょうか。だから、本田神父に共感するのでしょうか。
ゴキブリという発言も撤回しなければ、あんとに庵さんもフランシスコ会から破門でしょう