瀬留ミッションを終えて
昨日12日10:00は最後の訪問地安木屋場(あんきゃば)でのミサと懇談。
当時つまり10年ほど前のことだが、人口約180名の集落でミサに来ていたのは信者20家族中ホンの数家族だけだった。しかし、昨日のミサの参加者は週日であったので少なかったものの、ここでも新しい顔ぶれが4人も。で、説教はまさにカテケージス。
「・・・むなしい捧げ物を再び持ってくるな」というイザヤの叱責の言葉(1.10-17)をめぐっては「信仰は形式ではなく神様の心を大事にしようとすること。」12使徒派遣にあたっての最後のくだり「平和ではなく剣をもたらすために来た」(マタイ10.34-11.1)をめぐっては「ひとりひとりの中にあるわがままな自分本位の心との決別のために用いるべき回心という剣が必要なこと」などなど。
ブイジュ祭のミサでの挑発的な説教ではなく、久しぶりに来た人たちを何とか励ましたいと思った。噛んで含めるようにできたかは定かでないがうなづいていたので良しとしよう。少なくともゆっくり落ち着いてじっくり話せたので満足。こうした雰囲気のミサを捧げて回ったことでようやく「司牧訪問」を身を持って味わうことができたように思う。少し疲れたが気持ちは充実している。
そういえば、ふるさとの瀬留教会では、赴任当時主日のミサはもちろんクリスマスの時でも顔を見たことのなかった幼馴染の信者が奥さんと一緒に聖堂裏の草取りに汗を流していて驚いた。「ケンジロアニ(子供時代のボクの呼び名)がキュンチバ、デ、草トゥリデン シンニャンバ」(健次郎兄が来るらしいから草取りでもやってみるか)という気にヤットなったらしい。
やはり同じ状況にあるもう一人は一昨年設置された鐘楼係の一人でお昼が当番だという。
自発的な草取りに鐘つき。どちらも尊いことだ。こうして一歩づつつ御聖体に近づいていっているのだと思わずにはおれなかった。神様の巧妙な手の内を読むのは楽しい。こうしたことを見たり考えたりするにつけ「高齢化=教会の衰退」は間違いだと確信した。
「何事にも時がある」(コヘレト3.1)ことを実感すると共に教会再興を肌で感じた4日間だった。神に感謝!
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