祝 司祭職制定
主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。
主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである(ルカ4.18)。聖書の解説によると、貧しい人というのはこれら三様の人のことだという。
ところで、私たちは司祭であれ、信徒であれ、こだわりがあり、それはしばしば好ましいものとは言いがたい。そういう意味では「捕らわれている人」と言える。しばしば独りよがりで人の気持ちを慮ることに鈍感だったりする。そういう意味では「目の見えない人」であったりする。しなければならないことを重荷に感じたりすることもよくあるので「圧迫されている人」でもある。だから、私たちはみんな貧しい者なのだ。
もっとも、聖書が述べることとはレベルが違いすぎるし、震災で辛い生活を余儀なくされている人々に比べたら、言葉にするのもはばかられるほど些細なことかもしれない。しかし、そんな弱く貧しい司祭や信徒が「主の恵みの年を告げるために」遣わされていることの意味は大きく重たい。まさに圧迫感十分だ。そんなことを思いながら司祭職制定のミサを司祭団と共に捧げた。
「司祭を志すものは一歩前に出なさい。」39年前、神学部に上がった夏休み前のある日、仲間と共に「ハイ」と答えて、祭壇に向かって一歩踏み出したことも蘇った。あの一歩がいかに大きな「出来事」だったことか。「叙階記念のカードに記したみことばを思い起こし、自分の司祭職について黙想する一日にしましょう」と呼びかけた。会衆の皆さんの「一歩」は聖体拝領のとき「アーメン」を言うとき、とも。
みんなで、日々、新たな一歩を踏み出しながら「主の恵みの年を告げ知らせる」ことができますように、と結んだ。お御堂がほぼ一杯。昨年よりうんと多かったのは何故?
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