ミサのなかで
一つ上に移動主の復活の日に
2006年4月16日
主の復活こそ我らが命。
しかし、実際は、復活の今日と毎日の生活の落差は大きい。つまり、復活の主を称える日には主こそ我らの主、救い主、ナンバーワン。そう宣言してはばからない。しかし、日常の些事に忙殺される日々において、優先事項というのがあって、そう簡単に主をナンバーワンにすることは出来ない。そんな、私たちであっても、私たちに対する主の友情は変わらない。そこに救いがある。そんな主との命の関わりを更新するときがミサ。
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復活節第3主日
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復活節第4主日・糸永司教感謝ミサ
ヨハネ福音10章はよい羊飼の話。
「私はよい羊飼いである」(11節)で始まる今日の福音は、聞くものを二分する。まず会衆は自分たちの主任司祭のことを思うだろうし、司祭たちは身を堅くしながら、「自分は果たして善い牧者と言えるだろうか」と幾分自責の念を抱きながら聞くかも知れない。
しかし、もし、そんな風に聞くのはイエスの本意ではない。イエスご自身は会衆は羊で、司祭は牧者という色分けをしているのではない。
「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、オオカミが来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。・・・」(12-13節)「私はよい羊飼いである。」(14節)
「しかし、ボクはそんな雇い人なんかじゃない。ボクは違う!羊のために命すら惜しまないよい羊飼いなのだ!」ボクには、イエスがそんな風に叫んでいるように聞こえる。
つまり、会衆も司祭も等しく「私のよい羊になって欲しい!」と訴えているのだ。立場ごとに聞き分けるならイエスの本意を聞き逃すことになるから気をつけたい。つまり、会衆は「司祭たちはよき羊飼いとして私たち羊が迷うことのないようにしっかり導いて欲しい」と、時には批判を込めて願い、一方司祭たちは、「自立した羊になるべき。司祭頼みが多すぎるのはいかがなものか」と応酬したくなるのがオチではないのか。
それで何が問題かと言えば、どちらも回心しないまま自分の不都合を人のせいにし合うもっとも危険なパターンに陥ってしまい、イエスの羊の群れになるという根本的な課題が忘れられて、責任逃れの「ただの人の集まり」に堕してしまう。
そうではなく、みんながイエスのよい羊になる道を真剣に模索するとき「イエス好みの羊」、「イエス好みの信者」が誕生するのだ。イエスのよい羊になる道を模索?簡単なことだ。
①自分を第一にしたがる自分の現実:司祭の場合だと・プライド・知識・立場などなどにこだわり高圧的になりがち?信徒の場合だと・人と自分を比較・自己卑下・好き嫌いなどなどで心を閉ざしがち?これらはいずれも自分が第一でないことに対するゆがんだ反応であって、イエスはあくまでパートタイムの羊飼い。そんなこ「だわり」から自由になることが回心。よい羊への第一歩。
②頭での信仰に気づくこと:不平不満が多い・人の欠点が我慢ならない・自己主張が強い・などなど。
③いつも感謝する:「主よありがとうございます・感謝致します・賛美致します。」この射祷を四六時中クチにする。
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国頭(くにがみ)教会献堂ミサ音声・沖永良部
マタイ16,13-20
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
二箇所の下線部を巡っての話。
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信仰は冷静
Ⅰヨハ3:18-24
18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、
20 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。
21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、
22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
Ⅰヨハ3:23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
:24 神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。
主に下線部分を中心に話しました。
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Re:信仰は冷静
「愛の反対は憎しみでは無く無視」だと言うお話が数日経った今でも心に残っています。楽しかった日曜日の夕方から発熱、風邪をひきましたがベットの中で瞑想していました。
天候不順で身体が付いて行きませんがお風邪など引かれませんように
祈りのうちに・・・
選びを受け入れる
ヨハネ福音書15,9-17
「私があなた方を選んだ。」
神の選びの奥の深さをまだ極めてはいない。
もし、極めていたら、不要な言い訳や劣等感や人と比較したりすることから自由になっているはず。特に、共同体の中での様々なぶつかり合いは回避されるはず。
一人一人がなくてはならない存在、ということは頭で分っている。そうではなくて、神の選びがあって、あの人もこの人も自分のそばにいるのだと納得する必要がある。違いを認め合うことの難しさは、選びの意味を完全に理解していないところから来る。
ヨハ15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
ヨハ15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
ヨハ15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
ヨハ15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
ヨハ15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハ15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
ヨハ15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
ヨハ15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
ヨハ15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
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Re:選びを受け入れる
Re:選びを受け入れる
昇天、信者の証
昇天の本文は下記の通り。イエスの昇天が私たちにどんな意味があるのか。イエスの昇天はイエスだけの出来事か?イエスに起こったことは全て私たちの為だったとすれば、イエスは、昇天を弟子たちに見せる?ことで何を言いたかったのか。昇天を体験した弟子たちは、そして私たちは信者としてどう生きればいいのか。
使1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
使1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
使1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
使1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
使1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
使1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
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教会の誕生日
使徒たちの宣教2,1-11
1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
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Re:復活節第4主日・糸永司教感謝ミサ
昨日の御ミサ&パーティ、お疲れ様でした。
初めて真近で郡山司教様を拝顔致しましてとても人気がお有りになり、また親しみ安い
お人柄なのだと感じました。
叙階式の時とは印象が全く違いました。
昨日のお説教は今の自分に重なる部分が多く、「ありがとうございます。感謝します。
賛美致します。」の言葉が心に強く残りましてこれから実行しょうと素直に思いました
。ありがとうございました。
復活節第4主日・糸永司教感謝ミサ