家庭は世界を変える(教皇講話③)

トロントのホテルのポーチで。 それでも!Blog

教皇ミサの奉仕に向かう聖カロロ・ボロメオ神学校の神学生。私たちは、善き牧者の足跡をたどる牧者として、今の時代の傷を見つけ出して寄り添い、取り上げて手当をするように求められています。今日、わたしたちの側にこそこの司牧的回心が求められているのです。「出かけていってすべての人に福音を述べ伝えることは今日の教会にとって極めて重要なことです。あらゆるところに、あらゆる機会に、躊躇することなく、気おくれすることなく、恐れることなく。福音の喜びはすべての人々のためです。誰も除外されるべきではありません」(福音の喜び23)。

福音は、消費される商品ではありません。消費文化の一部ではないのです。けれども、今日のこうした文化を結婚や家庭に対して単なる無関心だとか、利己的だと見るなら間違うかもしれません。現代の若者は希望を失った臆病で弱虫な気まぐれ屋でしょうか?多くの若者は、こうしたガッカリさせられる事の多い文化の中にあって、無意識のうちに甘受する形を取ってしまっているのです。彼らは、美しく崇高で真に必要な挑戦を前にして恐れ、落ち込み、身動きができないでいるのです。すべてが完全になって理想的な条件が整うまで結婚を断念しているのです。そうしているうちにも、十全に満たされた生活ができないまま人生は過ぎていくのです。人生の真の喜びが分かるのは長い期間にわたって知識や熱意やそして情熱をかけた結果なのです。

数日前お話したことですが、私たちは、ある若者必な物がないので家庭を作らないと思わせるような、今が幸そんな文化の中に生きています。家庭を持たなくていい、それは誘惑です。

司教は、牧者として、エネルギーを結集して、神の祝福にもっと十全にこたえるような家庭を築く熱意をかき立てるよう求められています。私たちは、私たちを取り巻く世界の問題にフィラデルフィア教区カテドラル横のイエス像。ついて語り、キリスト教の利点を述べることよりも、若者たちを勇気づけて結婚と家庭を選ぶようにと誠実に招くことに力を注ぐ必要があります。実践の伴わないキリスト教は、教えの説明に明け暮れているうちに危険なほどに偏ったものになります。悪の循環にはまってしまうとさえ言いたいのです。

牧者は、“家庭の福音”が、個人的関心のみが支配的な世界にあって真の“良き音づれ”であることを示さなければなりません。何かロマンチックなお話をしているのではありません。そうではなく、家庭を持ち、世界と私たちの歴史を変革するために求められる忍耐こそ必要だと言いたいのです。家庭はこの世と歴史を変えるのです。(続く)

 

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