さまざまな問題を抱え、同時に多くの可能性も秘めたこの現実の世界こそ私たちが生き、信じ、そして宣べ伝えなければならないところ。最近まで、私たちは、いわゆる世の中の結婚と教会で祝う結婚の秘跡がどちらも大事にされる社会にきていました。両者は相互補完的だった。しかし、今やそうではありません。そんな状況を描写するなら、お隣の店と巨大なスーパーマーケット、というイメージです。(笑*スペイン語だったので何でみんなが笑ったのか分からなかったが)
つまり、前者は、見栄えがいいわけでもなく品ぞろえも決して多いとは言えないが、毎日の生活に必要なものならそこそこ手に入るし、店の人とお客さんとの個人的なつながりは深い。みんなが知り合いで隣人。信頼関係で結ばれている、いわゆる町なかの店。ところが、違うタイプの店が急成長してきています。巨大な空間と豊富な品ぞろえのスーパーマーケットです。
今の社会はこうした巨大なスーパーマーケットのようです。そこでは、ますます競争が主流となり、商売は信頼関係に基づくものではなく、親しみに満ちた個人的なつながりもありません。むしろ、物と人とのつながりや信頼を持つことのないようにと励ましているかのようです。そして、最新の流行や動きについていくことが一番肝心、これは宗教にも言えることです。
今日、いかに消費するかが重大さの決め手になっているように見えます。使い捨ての関係、使い捨ての友情、使い捨ての宗教、使い捨て、使い捨て…つながりを求めない消費、人間的関わりを弱める消費。社会的なつながりは、単に私の必要を満たす手段に過ぎません。もはや、親しい顔の見える共通の話題や個人的なことを分かち合うかかわりであるかどうかは重要ではありません。結果は、消費者にとって役立たなくなったり気に入らなくなったら捨ててしまうというです。
今や、私たちは、今日の社会を特定の消費者の好みに合った巨大な多文化のショーウインドーにしてしまいました。その一方で、多くの人々が“主人の食卓から落ちるパンくずを食べる”(マタイ15.27)ことになってしまったのです。そのことは、私たちの文化を著しく傷つけています。こうした今日の状況の根にあるのは、広く流布した貧困化でありひどい孤独感なのだと言いたい。最新のものを追いかけ、ネットで友達をたくさん作ることで今日の社会が提供するものに追いついてはいます。しかし、認められたいという際限のない努力をしても深いかかわりが得られないのではないかという不安の中での孤独。
この種の社会に生きる若者たちを責めるべきでしょうか?この種の世界に生きる彼らを断罪すべきなのでしょうか?それとも、「昔はよかった」という主任司祭や、「世の中はダメになった。物事がこのままでいいのなら、我々の行き着くところがどこなのか誰に分かるものか」ということばに聞くべきなのでしょうか?そうは思いません。(続く)
久しぶりのYOUCATは中高生15名に大学生1名、先生3名の最多。嬉しい悲鳴。約二か月ぶりのトレーニング再開2日目。体は忘れていなかった。
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