寄り添う教区へ

 カンパーイ!14日(日)の教区評議会の主題は「班制度の宣教的側面」(筆者)。「班集会のしおり」のブックレットが発行されたのが1985年。

鹿児島教区はいち早く第二バチカン公会議の精神にのっとり、班制度を教区活動の根幹に据えることで、新しい歴史の一歩を記した。来年、ブックレット発行30周年という節目の時を迎える。図らずも、班制度についての見直しを促すような時宜にかなった評議会となった。

そして、それを受けて開催された昨日の教区司祭評議会。さらに、一歩踏み込んだ議論がなされた。そこで再度確認されたキーワードは“寄り添う”。班制度は班集会が成立するしないに関わらず、鹿児島教区の根幹をなす宣教体制であることを再確認。

〇〇制度と聞いただけで否定的な感情が湧く自分の弱さはいまだに克服できていないが、この二つの会議を通して、「鹿児島教区の新しい福音宣教」の姿が見えてきたように思った。“寄り添う”というキーワードがボクの右脳を刺激したからだ。で、すぐに発展の歯車が動き出した。班の広がり、構成メンバー、そして班の必要を知ること。

そうして、「思い、言葉、行いで寄り添う。」思いは祈り合うこと。とくにミサの意向、共同祈願が各班の必要のためになされること。言葉は班のメンバーに関心を持ち、声をかけること。行いは、班の中で起こること結婚式、葬式などに参加すること。こうして、自分の班に対する帰属意識が育まれる。班の活性化には必須の重要課題。

「二人または三人が、私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18.20)という主のみ言葉を思うと、「2,3人しか集まらない」ではなく、「2,3人も集まる!」と喜ぶべきだ。主が共にいてくださるのだからこれ以上の祝福された班集会はない。そんな発想を忘れたら班制度の命を失うことになる。ともあれ、鹿児島教区の進化した新しい福音宣教の始まりの予感大。

今日の司祭総会は専門家を招いての「ミサ司式のしおり」による典礼研修会。「司祭は典礼を私物化してはいけない。典礼は司祭のものではない。典礼は民のものでもない。典礼は伝承。だから、司祭の好みで省いたり加えたりしてはいけない。」とくに若いころそういう傾向があっただけに重たく受け止めた。カテドラルに聖体を置くことの可否が問われたことがあるが、司牧的配慮を優先するボクの判断が可とされたのは嬉しかった。

三日間もの会議は、旅帰りの身には少し重たかったが、来年度に向けての大きな弾みとなった。

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