今朝の新聞は目をひく記事が多かった。一点を除いて、希望を抱かせるもの三つ

痛みを共有しようとする

みんなめげずに進んでね。バンより。

みんなめげずに進んでね。バンより。

一週間のうちで一番ホッとするのが土曜日の朝、ミサ後の朝食。ニュースの後はコーヒー片手に新聞タイム。一番興味をひくのが、社説の下段にある“次言”。社説は、長いこともあるが、公式見解という感じだが、“次言”は個人的な感想が述べられているので親しみがある。今朝のタイトルは”都心上空”。オリンピックによる空の混雑緩和のために、新設される東京都心の上空を通るルートを巡る記事。「各地で苦痛と不安にさらされている人たちのことを考えたいと改めて思う」と結ばれていた。かつて、普天間飛行場のすぐ側で聞いた騒音のすごさが思い出された。案内の人に、「私たちはどうすれば良いんですか」と言葉を向けると、「こうして聞いて下さるだけで良いんです」ということだった。今朝の記事に共感を覚えたのは、そんな記憶が蘇ったからだ。何はできなくても、痛みを共有しようとする優しさが心を結ぶのだと思うことだった。

鹿児島にもあった!

鹿児島の将来は私たちの手で

鹿児島の将来は私たちの手で

13面の”ミライページ”で紹介されていた高校には「校則がない」という記事に思わず声を上げた。「学校の当たり前を止めた」だったか、そんなタイトルの本を書いた校長先生のことが思い起こされたからだ。「そのため、生徒は、日々、自発的に考え行動することをモットーに学園生活を送っている」という。これこそ、教育の原点ではないか!「大人になってどう生きるか」が教育の目的だという視点は、モンテッソーリと同じ。福音の視点と言ってもいい。信者になるのは福音の価値、神を敬い人を大事にする愛、自由、平和を生きるため。ページをめくると、見慣れた制服姿の女子高校生たち。「労働への理解深める」の見出しのもと、県内企業によるセミナーに参加したという記事だった。しかも、彼女たちによる「企業に独自策提案」もなされたという。卒業前に早くも社会貢献。2校の存在は誇らしい。奮闘を祈りたい。

地方再生

竹林再生は「良し」とされた神の意に沿う

竹林再生は「良し」とされた神の意に沿う

このままではいけない。そんな危機感に駆られて、活動している人がいることに嬉しくなった記事は、これまでもあったと思うが、興味をひいたのは竹林再生。つまり、かつては当たり前だった竹林の存在。管理する人がいなくなったことで、いつか荒れ果て、もてあまされる存在に。産学連携での「放棄竹林解消へ始動」が頼もしい。この記事が何故目に止まったかというと、野鳥観察で歩いていて、目につくのが空き家の多さ。中には、築間もないと思われる家も少なくない。司祭館の斜め向かいに建つ洋風の立派な2階。時々管理人らしい人が来るようだが、兼ねては人気がない。いつもの、御領ヶ池に行くまでに数件ある。人ごとながら、放棄竹林と同じ運命をたどることになるか案じられる。竹林とは事情が違うとは思うが、なんとなく「もてあましている」感はぬぐえない。コロナウイルス騒動が収まったら行政が主導して考えてあげたら良いのではと思うことだ。

許しがたいが

人間失格でもまだ見込みはある

人間失格でもまだ見込みはある

最後の話題は、神戸の教師集団によるいじめ。一番情けなかったのは、「加害教諭らはいじめ防止対策推進法を正確に理解せず、認識の甘さがあった」との指摘。これは、法律を遵守するかどうかの問題ではない。人間としての基本的な生き方が問われているというのに。人間としての初歩の初歩が分からない人に子どもたちの将来を託することはできない。前にも書いたと思うが、こうした加害教師たちを首にしてはいけない。人間再生を施さなければならない。そのためには、何ヶ月にもわたるプログラムを課して人に寄り添うということを身をもって体験させなければなならい。「月内に関係者懲罰」とあるが、減給だけで済ましていけない、繰り返すがが首にしてもいけない。厳しい課題に取り組ませなければならない。被害者の先生がその気になれば、直接面会させて謝罪をさせるべき。調査委がどんな結論を出すか見守りたい。だが、彼らも神の似姿なのだから再生を祈りたい。

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