目からウロコ

なれかし、究極の従順を生きた聖母。フランシスコ教皇の講話集2からの受け売りその2。突然だが、英語で従順はobedience。ob-audire(ラテン語で傾聴する)が語源だという。

従順とは「おとなしくて人の言うことをよく聞くこと」(デジタル大辞泉)とある。これだと、聞き従う。上司の言うことにハイハイと従う人や動物を連想する。じっと耳を傾けて真意をつかもうとする積極的な姿勢としての傾聴するイメージは涌かない。人との人格的な関わりという観点からすれば、日本語の意味は貧しい。もっとも英語圏の人々が、誰に対しても従順な態度をとるときはいつでも傾聴の姿勢でいるとも思えないが。

そういう意味では、日本人も英語圏の人々も、従順に対する感性は似たようなものかもしれない。しかし、言葉の持つ意味の深さは英語圏の比ではない。物の本によると、従は同じ方向に集まることで、順は水が低いところに流れるイメージだという。きわめて日本人的というか、「それが日本人だー」と声を上げたくなる。何となく情けない感じ。ホントにそれだけ?究極の漢字学者に当たってみた。

従うの古い形は從う。人人が從のもとの形だという。「なるほど、人が二人いて主従か。」しかし、「人人、相聴くなり」とあって、「聴許の意とする」(字統-白川静著)とあるではないか!ちなみに聴許とは「訴えや願いを聞き入れてゆるすこと」(デジタル大辞泉)。従うという漢字に聴く意味が込められていたとは!大発見!感動しないでおれようか。こうなると、ハイハイというイエスマンが俄然別の顔に見えてきた。

どうかすると否定的な響きのする主従や従順が、実はそうではなく、「従う人が、ハイハイと言って上司の願いを聴いてあげて聴許を与える」ことだったとは!これで同等。卑屈になる必要はない!なぜか力が入った。やっぱり、漢字はすばらしい。Obedienceにも勝る感動だ。ともあれ、従順のダイナミズムというか力強い生き方であるらしいことが分かって目からウロコ。

相聴くところには平和が、相論じるところには争いが。反論も来そうだが、肝に銘じたいと思った。

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