福音の喜び

昼休み、眺望を楽しみながらのくつろぎの時間。福音の喜びの解説が続く。今日の解説の後での分かち合いは賑わった。長いこと教会から離れている信者が、一族の慶事のミサでご整体を拝領することがあるがいかがなものか。

46番、47番は教皇の教会観。それによると、教会は放蕩息子を待つ父親のようでなければならない。門はいつでも開かれていなければならない。で、「たとえ、準備の出来ていない信者が聖体拝領の列に連なっても拒んではならない」ということになる。安心した司祭は多かったと思う。教皇は、司祭が管理者のように振舞うことのないようにとも警告している。

秋のシノドスでは、これと似て司祭を悩ます結婚、離婚の問題に対処する際の新しい視点が示されるのではないかとの期待が表明された。以上午前中。

午後からの解説で刺激的だったのは、「霊的世俗性」。教区司祭のことをかつて在俗司祭とよんでいたが、その俗ではないらしい。文字通りこの世的という悪い意味だという。つまり、ファリサイ派的欺瞞的という意味で、教会にあるこの手の傾向にも釘を刺している。大なり小なり、思い当たることがあるので自戒。

具体的な指摘が多いので各小教区でも個人的にも読むように勧めたり、読書会を開くようになったらいいと心底思った。

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