カトリック北薩大会。異国情緒に満ちた佇まいの純心女子大学で開催。父の日の幼稚園行事と重なったこともあり、また田植えの最盛期とあって昨年よりも出足は鈍かったようだが、それでも、四教会から100名ほど参集。残念ながら第00回が記されてないので今年で何年目になるか分からない。
何カ月も話し合いを重ね「キリストの愛による北薩教会一致のために」(表紙)毎年の開催を欠かさない。出水、川内、阿久根、入来各教会持ち回りで開催され、来年は入来小教区。今年のテーマは「寄り添う」。年頭のことばの中で、今年の教区目標にしようと呼びかけたもの。1年の折り返し点で再度取り上げてくれたことは嬉しい。講話の後での分かち合いを聞く限りでは、相変わらず話の声量のムラに対する苦情はあったものの、話そのものは好評だった?で、少し気をよくしておさらい。
序として話したのは「寄り添う」という漢字のもつ意味と響き。寄は字統(白川静著)によると「人に付託する」という意味で、人に任せる、委ねる、なされるがままにすることであって、「私の意志は全く顧みられていない」ことに驚く。「そんな生き方が許されるものか」と思わず反論したくもなるが、「沿う」の説明にあるのは「水辺に沿う」。重たくなった気持ちがふっと和み、穏やかさが戻り、さらさらと流れる水の澄んだ響きに心地よささえ感じるから不思議だ。母親の懐にすっかり安心して身を任せている幼子と満ち足りた母親の姿が彷彿とする。子は母に母は子に寄り添う。人誰もが憧れている平和そのもの原風景と言っていい。
寄り添いの原点はもちろんイエス様でなければならないが、ボクによると、マタイ15.17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
ゴチャゴチャの説明は省くとして、イエス様は、人々に重荷となっている律法は、神さまにできるだけ忠実でありたいという昔の人々の善意から生まれたものだから、いろいろと不備な点があったとしても、救い主の私が来たのだから確かにもう不要ではあるが、それでも、とりあえず、作った人々の善意を大切にしよう。そして、足りないところはご自分で補ってくださった。これが贖いの業。これが、いわば究極の寄り添う姿。ということを心に留めながらもう少し先に行きたい。(つづく)
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