“愛は近きから遠くへ”の原則にしたがって先ず寄り添うべきは自分ということになる。自分の心の状態がどうなっているかをしっかり見ておくことがあらゆる人間関係はもちろん神さまとの関係の出発点。つまり、ありのままの自分と出会うことなしに周りの人とのいい関わりを築くことは難しい。まして、神さまとのいい関わりというか祈りで結ばれた親密さは生まれない。
私たちは、普段の生活で、考えることや思うことと感じることを区別しない。考えるのは理性の働きで物事をはっきりさせようとする。感じるのは感情であって曖昧模糊としてつかみどころがない。考えることと思うこととはしばしば同じであるが、心の動きを表すこともある。たとえば、「思いがつのる」は心の動きであって頭の問題ではない。ともあれ、区別しないからといって生活に支障をきたすわけでもないが、人や神様との関わりをより良いものにしようと思うなら少し面倒だが、この自分に寄り添う作業が必要。
この作業が必要なわけは、「考えることは責任を問われることがあっても、感じることは責任を問われることがない」という区別をしないめに混乱をきたしている場合が多いからだ。例えば、「悔しくていやな思いをした。顔も見たくないと思った」というとき、いずれも心の動きであり、何かのことに心が思わず反応したということなので責任を問われることはない。そうは言っても、「自分は何て心の狭い人間だろう」と反省し、痛悔の念に駆られて胸を打つことになるのだと思う。
こうした自己反省も自分に寄り添うことになるので、しないよりはずっとマシという意味で70点。ボクの信仰の理論から言えばこれでいいことになるのだが、できるならもう少し完成度を上げてほしいと思う。どうしてかというと、反省は一時しのぎになりやすいし、第一、自分に否定的な評価を下すのは、せっかく似姿として造ってくださった神さまに失礼。で、先を急ごう。
「どうして、いやな思いをしたり、顔も見たくないという強い心の動きが生じたのか。…いかにも自分が無知であるかのような彼の言動に腹が立つやら悔しいやら顔も見たくない!と思った。」例えば、そんな自問自答を繰り返してみると自分のもっと深い心の動きと出会えるわけで、それをいい悪いと判断しないで、そのありのままの自分の現実(自然な心の反応)を受け入れることが大事。これが自分に寄り添うということ。以前の気持ちとはずいぶん違って心が軽くなったことに気付くはずだ。
そうなると、自分の中で起こる否定的な心の動きに振り回されたりしなくなる。自分の不幸を相手のせいにしない。自分の感情、心の動きには自分で責任を取る。信仰においても生活面でも新しい地平が広がってくるので生きやすさを実感できるようになり、平和を作れる人になれるので80点。頭の体操でなく心の体操を!(つづく。)
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