「寄り添う」考3

潮見に立つ中央協議会ビルカトリック会館正面のキリスト像最後に、神様に「寄り添う」ことについて。神様に寄り添うというとわざとらしい響きがするかもしれないので、もっとわかりやすい表現がいいかナとも思う。たとえば、神様に耳を傾ける、とか。どちらでも同じようなことなのだが、ボクとしては寄り添うのほうがいい。後者だと、聞き耳を立てるとか、聞こうとする意欲は伝わるがどこか緊張感があって疲れそう、そんな感じがするからだ。寄り添うとなると文字通りじっとして側にいるだけで安心感があって、心臓の鼓動も聞こえてきそうでぬくもりに満ち、穏やかで暖かな感じがするからだ。で、ここでは、やはり神様に寄り添うということで書いてみたい。

やはり、イエス様に学びたい。ザアカイの回心のエピソード(ルカ19.1-10)を思い出してもらいたい。ルカは、ザアカイの回心の理由を記さない。だから、これから書くことはボクの想像にすぎないわけだが、あながち見当はずれでもないように思っている。

ザアカイは金持ちとあるが、当時の徴税人の悪い癖で、取り立てた人頭税の一部をネコババすることも珍しくなかったようなので、ザアカイも例にもれず、そうして小金を貯めていたものと思われる。そんなザアカイが自分を罪びと呼ばわりする貧しい村人に、せっせと貯めこんだ虎の子の半分を、どうして「分けてもいい」という気になったのか。罪びとの烙印を押されることが社会的交わりを絶たれることを意味した当時を思うなら、「ザアカイ!」と親しく名を呼ばれたことに木の上のザアカイがまるではじかれたように「急いで」(6節)飛び降りた理由が分かろうというもの。

それに、こともあろうに罪びとの彼に一宿一飯の宿を乞うこと自体前代未聞。旅人をもてなすことが美徳とされたことを思えば、ザアカイにとっては慶事。だから、「喜んでイエスを迎えた」(6節)。そんなイエス様との時ならぬ宴会にザアカイがハイになったのも容易に想像がつく。

上野のアジサイは何度見てもあきが来ない。さて、迎えてもらったイエス様はそんなザアカイに感謝の言葉を述べられたに違いない。指を指されることはあっても、感謝われるザアカイはすっかり心を許し、問わず語りに身の上を明かし始めた。「そうかそうか」と大きく頷くだけのイエス。自分を一人の人間として向き合ってくれる初めての人が目の前のイエス様。

一息ついたザアカイは心が軽くなっていることに気が付いた。そして、いくら小金をためても止めることのできなかった心の隙間風が止んだと感じた。やっと、人のぬくもりに満ちた寄り添うイエスと出会った。そして、敵視していたエリコの村人に広々と心の扉を開くことができた発見。「救いがこの家を訪れた」(9節)。

私たちもそんなイエスを、祈りながら息子の帰りを待つお父さんである神様を「喜んで迎え入れて」何でも話し合える間柄になること。これが究極の寄り添う姿。

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