またも突然だが、「共に歩むシノダリティの教会になるとは、

一緒に旅をすることだ」ー神学ダイジェストNo134 74頁ー

同じ頁は次のように続く。「自分自身を他者に明け渡し、耳を傾けて語り、思いめぐらして識別し、次の一歩を共に踏み出すことだ。道は歩くことでできる。知恵は、旅路への主の招きに応える中で見いだされる。その旅路は、聖霊と共に、そして私たちが相共に歩む道であり、そして究極的にはすべての被造物と共に歩む道である。神が世界に抱いておられる夢である未来を、私たちは共に創っていくのだから。」

寄生植物も受容するクスの巨木。教会もこうありたい。

寄生植物も受容するクスの巨木。教会もこうありたい。

前後するが67頁には次のようにある。「知恵のうちに前へと進む唯一の方法は、神と神のなさっていることの近くから離れないことだ。…相手から離れずに進むダンスのようなこの識別…」。ちなみにこの論文のタイトルは「シノダリティのための知恵」。この知恵と識別なしの歩みになっていないか各自が問われている。

「泣くべき時に泣ける人が健康です」というソウル教区司祭の記事も興味深い。「模範的すぎることも病と言えるでしょう」には「これはボクのことではない」となぜか安心感のような心の動きが。ともあれ、シノダリティの教会員らしく生きるための前提は「ありのままの自分と共に生きる」ことかと。

ペトロ吉元憲一さん所有のアジサイ公園にて

ペトロ吉元憲一さん所有のアジサイ公園にて

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