いよいよ末期症状?
と思えるような教会の惨状には目を覆いたくなるもおがある。初めて見たと思うが、「カトリック・あい」という信者たちが作る「教会当局に物申す会」みたいな感じの文書が届いた。「あい」は「I(わたし)」「eye(目)」「会い」「愛」「相」先ず主体性を持った私がいて、まわりに目を見開き、神と人に出会い、愛でつながり、相ともに人生を歩む。
それがカトリックの信仰のあかし・・そのために少しでも役に立つ情報を共有したい・・そうした思いをタイトルに込めました。
こうした志の信徒有志がいるなら大丈夫
辛口の投稿もあって読む人にとっては「不快な批判」と聞こえるかもしれないが、現役引退の身にとっては、語弊があるかもしれないが「眺めるゆとり」を持って読むことが出来る。こうした言葉の数々を批判ととるならそれまでのことだが、「叫び」と感じたらじっとしておれない。ボクには「叫び」に聞こえたので早速投稿した。ペンネームを使ったとは言ってもこうして公開しているのだからバレバレ。
忘れることが出来ないのは、十字軍。あ、いや、十字軍に会ったわけではないが、彼らが奪還に向けて進軍した聖地を訪ねると同伴させた下働きの人々が築いたという見事な城壁に複雑な気持ちになった。「おそらく奴隷だった」という。「十字軍が来る!」と聞いただけで現地の人々は震え上がったとも聞いた。
戦の推進役は教皇だったりした
「敵をも愛しなさい」という創立者のみことばも何のその、「ワシのみ言葉こそ一番」とこぶしをふり上げることが、とんでもない大罪だと誰も思えなかったほどに教会が、文字通り「幼稚な裸の王様」になっていた、ということになる。その数百年後にルターが反旗を翻しても聞く耳を持つ者はいなかった。
フランシスコ教皇には期待したい
そして、500年近くたった今日、ようやく聞く耳を持つ人が現れた。ほかでもない現教皇だ。いや、冒頭の「カトリック・あい」の勇士たちもいる。あ、有志と書いたつもりが、勇士と出た!あたかも、それいけどんどんの十字軍に「ノー!」と立ちはだかる勇士たちに思えてくるではないか。
ともあれ、混迷の今だからこそ、神の思いと人の思いを識別できて、きちんと物を見、キチンとモノが言えるあのアモスのような民間の預言者を必要としている。「カトリック・あい」の預言者集団に期待したい。武力に頼った当時の教会と違って、大人になった今日の教会には知的で冷静なイエス様の従事軍が数多くいる。教皇と教皇の援軍ともいえる在野の無名戦士に心からのエールを送りたい。
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