待っていたのは幼児どころか教会学校そのもの
幼児3人に限りない喜びと希望を抱いた指宿。あれから早やひと月が過ぎた昨日の日曜日。ミサ後聖堂に残ったのは保護者と子供5人。1人は所用で欠席。教会学校始業式!6人の子どもたちは小学生3人、中学生2人、そして高校生1人。全員女の子。欠席の一人が唯一の男子。リーダー3人と保護者4人。
聖堂での簡単な始業式の後、「修道院」に移動。かつてシスターたちが住んでいたが今は空き家。それでも、信者たちの間では修道院で通っているようだ。おやつをほおばりながらののクラスに差し入れのメロンが花を添えた。高校生がスマホを取り出して何やら始める様子に「あ、ちょうどよかった。スマホ持っている人は出してください。」スマホに聖書を取り込むいつもの作業。
ルカ15章11節を探してください
こうしていつもの?放蕩息子のたとえ話からクラスは始まった。最初にスマホを取り出した高校生に読んでもらった。「さて、父親とは誰のことでしょう?」一斉に首を傾げたので少しがっかりしたが、かえってやりがいを感じた。あっさり答えを言ったら「フーン」。「家出をした息子のことをお父さんは何と思っていたのでしょうか?ヒントは20節です。」
「帰りを待っていた。」「そうそう、帰りを待っていた。で、どんな風に待っていたと思う?何にも書いてないけど、考えてね。…みんなのうち誰かが家出をしたら、おうちの人は何と思うだろう。」「心配する。」「そうです。この息子は長いこと帰ってこなかったみたい。何の連絡もない。さっきのヒントに戻って考えてね。ただ心配しただけ?1日終わって床に就く前に必ず言った言葉があります。いや、言ったはずです。」「…元気で帰ってほしい。」「そうです!」
後は、いつもの結論
「元気でいてくれればいいんだが。」「それって、父親の祈りと言えない?」ようやく、頷いてくれた。そこで、すかさず「イエス様は、どんなに悪いことをしても、自分の悪さに気が付いて、元の元気な姿で帰ってきてくれるように祈りながら待つのが、みんなのお父さんである神様であることを分かってほしいかった。イエス様のたとえ話の中で一番長い話。一番大事なことだからです。」
ついでに、親たちにも一言
親たちにも聞いてほしかったものだからつい力が入った。「どんな悪いことをしても、私たちは神様の裁きの対象ではなくあわれみの対象なのです。私たちは罪を学び過ぎたのです。神様の親としての気持ちをもっと学ぶべきなのです。」親たちも感に堪えたようにゆっくり頷いていた。質問したくなったのかもしれないが…。
ともあれ、またもスマホ聖書人口が増えたことに満足。耳慣れた人なら、「あ、また同じこと言っている」と思うに違いないのだが、初回にしては手ごたえ十分。先月、誰だったか、数週間もたたないのに、「司教様の話は分かりやすい」と言ったことが気をよくしたものだ。そのことが思われて「よし!」と力を倍加させた。というわけで、帰りのコンビニで300ミリの赤ワインの小瓶を買って乾杯した。ウフツ!
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