あの人と言っても
すぐに思い出を共有できるような著名人ではない。いや、記憶をたどるのはそれほど容易ではないと言ったほうがいいと思う。中学生の頃の話で、アメリカ人宣教師の食事担当のテツヨシアニのことだ。いや、もしかしたら、高校生の頃だったようにも思う。角ばった顔でいつも眉間にしわを寄せていた。職人気質のいちずな感じのイメージだけが残っている。
名簿片手の訪問でタイムスリップ
「この方は時々ミサに来られます。かなりお年ですが自転車で。」○○テツヨシ。「えーっ!この人知ってる!」思わず叫んだものだ。苗字と名前がセットになって突然、記憶の中に飛び込んできたのだ。確かめる根拠をただすこともなく、しかし、不思議な確信のもと、話半ばで駆け付けた。分かりやすい所でほっとした。
スィルブヌ郡山ダリョット!
車を止めて、門札を確かめたがそれらしい名は見当たらない。庭先で花壇に水やりをしているご婦人に尋ねると目の前の家がそうだと教えてくれた。一人住まいかと思ったら、かなり古いが大きな二階建てに驚いていると、「二階にはお孫さんたちが住んでいます」と教えてくれた。「あ、来られましたよ。」振り向いたそこにはあの人が自転車を止めて立っているではないか。まぎれもなく記憶の中のテツヨシアニだった!「スイルブヌ郡山ダリョット!」(瀬留の郡山ですよ!)
分かってもらえるはずもないのだが、感極まったものだから思わず声を上げたのだった。予期しない突然の来客に驚いた風でもなくニコニコしながら何やら口ごもられた。野菜をつくったりなさると先ほど聞いたが、なるほど日焼けした褐色の顔は小さくなっていたがまぎれもなくテツヨシアニその人だった。
マタイモレィヨ!
考えてみると、記憶を辿ろうにもボクのことなど記憶の片隅にもあるまいに、とは思うが、戦後の教会復興に貢献した多くのみなさんの中で神父様たちの一番近くで働いていたテツヨシアニはやはり存在感があったのだ。次回は、昼間は働いているという孫たちも在宅かと思われる日曜日の午後に出かけて話を聞きたいと思いながら分かれた。「マタ、ごミサダカイモレィヨ」(またごミサに来てくださいね)。笑顔でうなずかれた。
1928.05.07
8時15分。ホームドラマが終わったら、録画してもらったフォレスタに切り替え、隣の書斎に移動してコーヒーをすすりながら読書ないしはブログを書くのがいつものことだが、今朝は、テツヨシアニが気になって改めて名簿をめくった。1928.05.07。「七日と言えば昨日。えーっ!昨日は誕生日だったのか!」
ニコニコしながら指を三本立てて「あと三年で百!」日焼けした笑顔が一層輝いて思い起こされた。「そうだったのか!」終始ニコニコの訳が分かった!昼から帰郷中のセイゴアニに会いに行くはずだったが、「これは今日しかない!」すぐさまケーキを注文した。孫たちもいるというので5,6人用。2時頃にはできるという。
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