25年ぶり故郷での聖週間はこれまでになく深く静か

ここは理想的な小教区

そう聞くと、”エッ?!と”思わず身を乗り出して話を聞きたくなるに違いない。少子高齢化はもちろん問題山積?の”わが小教区とどう違うのか知りたい”と思うに違いない。いや、むしろ”今どきそんな話が?”と疑心暗鬼になるかもしれない。

そうなのだ。問題のない教会などどこにもないのだから。ボクが言いたいのは、かなり主観的になるのだが、「司祭が司祭本来の在り方に専念できる」という意味で理想的なのだ。今どきの言葉で言うなら「信徒中心の教会」ということになる。

司祭が手を出さなくても教会は回る

役員会に司牧評議会、準備はもちろん司祭は全く関与しなくてもきちんと事は運ぶ。”うちもそうです”という小教区もあるかもしれないが、ボクには全く初めてのこと。現場を離れている間に教会が進化したのかもしれないが。

聖週間に入ってもかつてのような気ぜわしさは全くない。一番驚いたのは、昨日のミサ後のご聖体の移動。イエス様がお隠れ遊ばされる部屋の準備がいつの間にか整えられていて、それもかつて見たことのない見事さ。かつての泣き部屋が素晴らしい”主の別荘”に。

お引越し後も別れがたく

これはどこでも見られる姿かと思われるが、大半がイエス様の新居?に向かったまま名残を惜しんでいるかの姿が美しかった。さすがにシスターたちは30分ほども。”かつて思い描いた永久礼拝の部屋”の構想が蘇った。

シコンノボタン聖書の庭の手入れ中、可憐な花が咲いていることに気が付いたので抜き取るのを止めた

シコンノボタン聖書の庭の手入れ中、可憐な花が咲いていることに気が付いたので抜き取るのを止めた

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