パウロはアテネを去ってコリントに行った
というわけで、私たちもバスでコリントに向かった。聖書の世界を行くのがタイトルだが、同行のピーター神父さんはあまり好きではないようでいつも退屈そうな顔をしている。シスターの豊富な知識に基づいた解説はボクにはボンヤリとしか伝わらなくても、興味は尽きないのだが。
草に覆われて原野と化したコリントの姿は退屈と言えば退屈だが、往時を忍ぶのも魅力的だ。とくに、「パウロが歩いた道路です」などと言われると、思わず踏みしめたくなる。パウロはここで道行く人々に呼びかけたに違いない。「メシアはイエスだ」(使徒言行録18,5)と。
パウロが切れたコリントだが…
しかし、現実は甘くなかった。ユダヤ人たちは反抗しただけでなく口汚くののしったものだからパウロがキレた。アンタらのことなんかワシはもう知らんワイ!と言ったらしい(同上6)。で、今後ワシは「異邦人の方へ行く」(同上6)と捨て台詞を残して、ユストの家に宿をとる。
アテネでも新しがり屋のギリシャ人たちから相手にされなくてコリントのユダヤ人たちを当てにして来たというのに踏んだり蹴ったりのパウロ。しかし、「ワシはもう止めた!」と投げ捨てないところがすごい。
もともとキリスト嫌いであったこのパウロに目をつけた神様の慧眼はもっとすごいというべきだ。「激しやすさ、短期、一途さ。」何が神さまの道具になるか読めないところが面白い。「一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた」(同上11)。
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