シノダリティー(共に歩む)
世界の教会を席巻しているシノダリティー。その命ともいえる?「霊における会話」こそ教会の新聞、教区報、月刊誌等でしばしば取り上げられている教皇主導の教会改革の切り札。
「霊における会話」。公教要理が教えたことのない、つまり信者がかつてやったことのない不思議な名のこの会話。結論の前に少し寄り道。
人は気持ちで変わる
頭は自分を守るためによく働くことを知るべきだと思う。そこに本当の人間関係は生まれない。残念ながら教会はそこら当たりのことを正式プログラムに入れなかった。公教要理が生まれた当時の教会情勢を考えると分からないでもないが。
MEは徹底して自分の正直な心の姿を見ようと頑張る。そして、相手の正直な気持ちを認めて受け止めようと頑張る。頭で生きている普通の人間にとっては”頑張らないと”難しいのだ。
しかしそんな自分と出会えたら頑張らなくてもいい人間関係が手に入る。そんな関係こそが、神の国の姿そのものと言えないか。
教皇はそのことに気が付いた?
教会がこれほど痩せ細り問題山積の原因を作ったはなぜか。もちろん明快な答えはないとしても、教皇は薄々感じているのではないか?頭を使い過ぎて聖霊の働きすらも学問の領域に閉じ込めてしまった。
神さまのことが、神学ですべて分かったと思ってしまった。イエス様は神学を勉強したわけではない。ひたすら御父と会話しながら教会の基礎を築かれた。「そうだ!頭から気持ちの世界に戻ろう。」そして、”霊における会話”が生まれた。根拠のない勝手な結論だが。
元祖はMEだった!
実は、これ、MEの夫婦たちにしてみれば別に驚くことではない。二泊三日のプログラムに入るとき、先ず直面するのが自分との出会い。この課題をマスター?しないとその後の課題もうまくいかない。
「言いたいことは分かるけどね…」と言って心から同意できないことはよくあることだ。反対に、「気持ちが通じた」と感じたらよく分からなくても、先に進める。これが人間というもの。
結論:MEこそシノダリティーの本家
追記-ME50周年の慶事はシノダリティー1周年の慶事。実は、本家本元はイエス様と御父の会話。神に感謝!
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