86災害

聖堂裏のミニルルド。8月6日は主のご変容の祝日。70年前、広島に原爆が投下された日。鹿児島では20年前?の86水害。だから今日は86災害の日。それにしても、マリア様無原罪の御宿りの祝日の12月8日の開戦日といい、被昇天祭の8月15日の終戦といい、戦争も水害も教会絡み。

ともあれ、8時前、司教不在の広島教区カテドラルに着座。あ、新司教の着座式というのではない。8時から始まる原爆及び戦争犠牲者のための追悼ミサに正式の入堂式はなく、ぞれぞれが香部屋から指定の席に着き、会式を待つというもの。原爆投下の8時15分のミサ会式までの15分間を静かな祈りの中で待つという趣向。

目を閉じてアナウンスの指示に従った。70年前、投下された原爆が空中で爆発し、一瞬のうちに数10万もの命とともに街が消えた。戦争末期、物不足で不自由を強いられ、貧しさと不安の毎日だったとは言え、全ての日常が突然動きを止め、阿鼻叫喚の地獄絵と変わった。想像しただけでも全身が硬直し、動悸がした。投下した米兵はどんな気持ちだったろうか。美しいフルート演奏を聴きながら思いを巡らしていると、次から次とマイクの声がやまない。静かな祈りを導いているのだとは思うのだが…。

8時15分ちょうどに、大阪大司教さんの司式でミサが始まった。いつものように、入祭の挨拶も俳句付き。慰霊のミサにふさわしい一句だったのはさすが。さすがと言えば、説教は旧知のイエズス会司祭。“石が叫ぶ“だったか、社会活動家らしい目線で本を出されたこともある司祭で、種子島時代に黙想会に来てもらったこともある。そんな本を思わせるような語り口は力強く、健在ぶりが伺えて嬉しかった。

“どうして、神父さんだったのだろう“と漠然と思っていると、“当時、測候所勤務のSさんの十字架の道行の森から聖堂を臨む。 奥さんが神父さんの教会の信徒で、彼女の口利きで実現した黙想会だった“ことが、突然、鮮明になった。

ミサ後、声をかけてもらった。三十数年ぶりの再会!当時と同じように若々しく輝いておられた。さすが!新幹線での柿の葉寿司と缶ビールのお昼はいいね!2時少し過ぎ帰館。

シャワーを済まして幸便でマリア山荘へ。初めて企画された大神学生の集い。1人は今日帰国したので4人+2司祭+1助祭。久しぶりに若い人たちとロザリオと教会の祈り。いいね!さすが森の中、涼しくて汗をかかない。もうすぐ会食。

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