新しい言葉を語る
昨日29日午前11時、御心教会でのミサで読まれた福音は使徒たち派遣の箇所。「信じる者には…新しい言葉を語る」(マルコ16.17)。フランシスコ教皇にはふさわしい箇所だった。個人的な感想だが、まさに、「新しい言葉」を語り続けた教皇だと思うからだ。

奄美新聞の見出し
彼の手になる文書は、思わず「ウンウン」と頷きたくなる。「私たちの言葉で話している」と感じがするのだと思う。「自分の信仰を自分の言葉で語るように」という神学校での教え。教皇の文書にはいつもそれが感じられた。
教会は野戦病院みたいなもの
ボクにとって最も新しい言葉はなんと言っても”教会は野戦病院”。ミサでも訴えたかった言葉だ。信者は野戦病院の職員みたいな者だから臨機応変に人々を招き入れる広い気持ちの涵養こそ大事。熱心な信者ほど人を裁く悪い癖を司祭を筆頭に直すことが急務。

南海日日新聞の見出し
教皇はそんな言い方はしなかったが、彼の言動には手続きや決まりを超えたメッセージを感じた。前回も書いただが、揺り戻し教皇が選出されることのないコンクラーベを祈る。
ミサ後二社の取材
ところで、久しぶりに一杯になったお御堂の三分の二はシスター。それはともかくとして、こんな大勢の会衆とミサを捧げるのは久しぶり。追悼のミサということで、教皇謁見でのことや個人的な感想などかねての三倍は話したと思う。
ヤレヤレと一息入れる間もなく二社からの取材攻め。ここは滅多にない機会ということで愛する地元紙へのサービスのつもりで積極的に応じたものだから小一時間も。それにしても、今朝の見出しの違いは興味深かった。

聖書の庭に色どりを添えるユウゲショウ
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