「収穫は多いが働き手が少ないと」(ルカ20,2)と嘆かれた主は、労働者の募集ではなく祈るように言われた。祈ることなしに福音宣教はなく、祈ることなしに神との出会いも生まれない。祈ることなしには何も起こらない。そういう意味では、日本のMEの中で少しづつ祈りの輪が広がっているのは嬉しい。
すべての活動はイエスとの生き方が溢れたものであって、Selfevangelization(自己内宣教、自分自身の福音化)が前提となる。これはかねて言っていることだが、これほど明確に言った人に初めて会った。上から目線で宣教は始まらない。肝に銘じたい。福音書は宣教で終わっているのだが、神の息吹(聖霊ルーアハと同じ言葉)で人が誕生したことを思えば、何よりも、聖霊と共に歩むことが必要。洗礼で新しく生まれた時の聖霊は福音宣教のための新しい息吹。
とくに、MEは世界に蔓延する壊れた結婚に目を向ける必要がある。つまり、MEは人類の基本的仕組みとしての結婚の再興のために派遣されていることを忘れてはならない。結婚の再興は家庭の再興ということになり、こうした家庭に向けての宣教は急を要する。今や、社会を広く、深く変えるための緊急事態だ。
確かに大変な状況になっているとの認識はあるが緊急事態だと言われても、どこかやはり人ごとの感じを否めない。なんとなく、エイエイオーに通じる感じがするからだが、ただ、「宣教は恵みであり召命」(福音宣教#14)だと言われると力んだ感じがしないからいい。”宣教は恵み、宣教は恵み”となん度も繰り返しているうちに、次第に、”そうなんだ”と感じられそうな気もするからだ。こんな風なヤワな反応をするから日本の宣教は活発にならないのかもしれないが。
そういえば、かつて鹿児島教区で取り組んだ宣教家族プロジェクトは失敗したが、諦めているわけではない。数年前訪ねた地域では、10数組だった家族が今では子や孫で3倍にもなっていた。福音に一直線というのは実は多くの人に魅力のあることなのかもしれない。鹿児島教区の信徒数が9千を切らないための切札は「これしかない!」というのが実感だ。他人頼みと言われそうだが名案が湧かない。そういう意味では、少なくとも鹿児島教区にとって宣教は緊急を要することではある。
hデンパサール~インチョンの7時間は、ナバロンの要塞などのナツメロ映画でとうとう一睡もしなかった。帰ったら先ずず温泉にいきたい。
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