今日はまじめに読書三昧。飛行機に乗るときに買う保守系の新聞がある。友人は「原発推進派だから読まない」というが、ボクは「一番安いから買う」という。そして必ず目を通すのが書評欄。先般、目に留まったのは論壇誌紹介ページの中央公論。月刊誌の一つという認識はあっても手にしたことはなかった。”国際観光客到着数22位、「おもてなし」で客は呼べない”など新聞で紹介されていた三篇の記事は刺激的で確かに興味深かった。
しかし、実際手にしてみたら、それよりも、特集佐藤優が選ぶ知的ビジネスパーソンのための中公新書・文庫113冊に目が行った。C人間関係・心理に強くなる19冊で紹介されていたのが“痴愚神礼讃”。2014年に出たラテン語原典訳。高校時代はエラスムス・人文主義者・愚神礼讃で覚えたように思う。それはともかく、彼が1466年生まれのカトリックの司祭であったことを知って興味が湧いた。ウキペディアで調べてみて興味が倍加した。
人文主義者とは「ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人のこと」とあって、教義中心の当時の教会には批判的で、もっと聖書から学ばなければならないと主張したという。しかも、彼の思想は同じアウグスチヌス会員のルターに影響を与えたと聞くと読書どころではなくなった。知識としてのエラスムスが「ルターの親友の司祭」として同業者の親しみに変わったからだ。読み止しの痴愚神礼賛を脇に置いてネットめぐり。
教会の一致を乱してはいけないと後輩のルターに忠告もしたという。しかし、次第に過激さを増すルターから次第に離れ、彼とは一線を画することになる。それでも、ルターに対する教会当局の処遇に関しては穏便に取り計らってくれるように協力したいとも言ったという。結果的には、「アンタは一体どっちの味方?」みたいなことを言われて、ルター派と反ルター派からの批判にさらされた。「エラスムスが産んだ卵をルターが孵した」という言葉あるという。宗教改革者エラスムスを感じる言葉だ。
アシジのフランシスコは「私の教会を建て直しなさい」という声に促されて朽ちた教会の再建を始めたが、本当は、腐敗した教会の再建が神の御望みだった。フランシスコは腐敗した教会を見捨ることなく、そんな教会にとどまりながら教会刷新に貢献した。どこかで読んだことがある。その約280年後のエラスムスが教会に臨んだことは同じ路線。
エラスムスも聖人にしてあげればよかったのに、と思った。ルターも惜しいことをしたと思う。聖人になれたはずなのに。この三人どこがどう違ったのか。特に、エラスムスとルター、同じ志を抱きながら最後まで手を取り合っていけなかったのが残念でならない。
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