久しぶりのノンビリマンデーは”霊的指導”で聖なる時間

霊的指導

司祭にも必要な生き方の書神学校時代に受けた月一の霊的指導は、指導司祭とのコミュニケーションがうまくいかず、最初の四年間は苦痛だった。午前中、そんな司祭とのやり取りを思い起こさせるタイトルの本を読んだ。その名も”霊的指導”。先日、懇意にしている司祭から手渡されたA5版の100頁にも満たない小さな本だが、開いてみたら一気に読んでしまった。

地に足の着いた信仰へ

霊的指導と言えば、神学生か修道志願者が受けるものとの印象があるが、この本は信徒が受ける霊的指導のすすめ。しかし、そういう前提なしに読んでも役に立つ。乱暴な言い方になるが、おおざっぱな信仰生活を地に足の着いた重みのある信仰へと導いてくれる。第二章は「霊的指導を効果的にするために」となっていて、まず誠実であることだとある。

誠実であること

誠実であるというのは、自分の中にある「一番言いたくないこと、言うのが恥ずかしいこと」に直面するということ。これは直接指導を受ける受けないに関係なく、また、許しの秘跡を受けるときだけでなく、普通の人間関係の中でも、自分のありのままを知っておくことは大事なことと思っている。個人的に思うのだが、自分がよく見えているときは、すぐに人の批判をしたりしないで見守るゆとりがある。

お説教から分かち合いへ

また、特に司祭が説教を準備するときは、自分のありのままの姿をよく見ようとしなければならない。そうしてなされる説教は、いわゆるお説教ではなく、司祭の信仰の分かち合いになる。信者たちはこれが聞きたい。心したいと思う。以上、39頁-41頁参照。そういえば、司祭には神様との一対一の霊的指導が特に求められている。老婆心ながら、そんなクオリティータイムを是非楽しんでほしい。

単純さへの招き

もう一つ心がけたいのが単純さ。著者は言う。「単純さという徳の敵は、気取った言い方とかふるまい方、注意を引こうとしたり、博識ぶってみたり、…自惚れた態度」(46頁)。やはり、仮面をかぶらないでありのままでいるのが一番いい、ということになるか。暑い夏も心は爽やかにいきたい、と思った。

*「霊的指導」のお問い合わせは「セイドー文化センター国際男子学生会館」まで

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