教会はいろいろあるが、それでも人をプラスにする力を秘めている

新聞の投書より

今朝読んだ17日付のカトリック新聞の声欄の投書。「精神障がい者もプラスの存在に」というタイトルに思わず本文に目をやった。「精神障がい者は、常識的に言えばゼロ以下の“マイナスの存在”です。そうした私たちをも、主キリストはあがなってくださいました。それを信じることにより、私たちはかろうじて“プラスの存在”になることができます。」

プラスの存在になれた!

「ゼロ以下のマイナスの存在」と聞くだけで全身がこわばるような感じに襲われた。同時に、「そんなことがあってはならない」と叫びたくもなった。しかし、主キリストの贖いで「かろうじてプラスの存在になれる」と知ってホッとした。もっとも、「かろうじて」という修飾語は痛ましいが、救いの体験をした人の言葉として正直で、それだけにインパクトがある。重たいが大事にしたい証言だ。

それでも生きる価値がある

「どの人もみんな愛される価値があるし生きる価値がある。」小教区にいた頃、入園式や入学式で何十回話したことだろう。昔、受験に失敗して落ち込み、「だめな自分」を恥じて引きこもったことはあるが、自分のことを「ゼロ以下」と感じたことはない。「ショックですぐに立ち上がれないだけで、そのうちやり直せばいい」という思いがどこかにあった。しかし、今日読んだ記事の著者は、ボクみたいな一時的な状況とは比較にならないほどの長い時間を生きておられるわけで、ガーンと一撃を受けた感じだ。安易に「誰でも生きる価値がある」などと言っていた自分の視野の狭さを恥じたのだが、それでも、思いは今も変わらない。

発信のおすすめ

ところで、投書された人ほど深刻でないとしても、信者であれば、それなりの「マイナスからプラスへ」の救いの体験があるわけで、カトリック新聞だけでなく、フェイスブックにもジャンジャン発信したらいいと思った。いつくしみの特別聖年でもあるので、神さまのいつくしみに触れた体験として時宜を得たものだからだ。それにしても、生身の人の集まりである教会の現実は一筋縄ではいかない感じもするが、今日の記事を書いた人の周りには神様のいつくしみの波紋が広がっているようで穏やかな気持ちになった。大石さんありがとう。

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