突然だが「聖職者主義」という言葉をよく目にするようになった。

来年のシノドスに向けての準備の期間だからだが

最近、知り合いの司祭からアメリカ、ドイツ、スペインの教会のシノドスに向けての取り組みの様子が送られてくる。彼の翻訳によるものだが、その文書を読んでいると、少なくともこの三つの教会の本気度が感じられて来年の本会議がどんな実りをもたらすのか楽しみになってきた。

静かな日本の教会と違って談論風発。ストップ聖職者主義!シノダルチャーチ(共に歩む教会)こそすべて!等々。「共に」ということを厳密に理解した上で、信徒が教会のあらゆる決議に参加すべきだとの主張が主流を占める。「後は神父様に任せます」とか「最終的には司教様が判断して下さい」という発想は全否定されそう。

各国の熱のこもった準備の様子には圧倒されるが、とくに心に残ったのは「イエスが語ったことに帰れというものだ」というドイツの文書。教会はあまりにも肥大化し過ぎた。宣教が実りをもたらしたと言えばそうだが、この巨大な人間の集団をまとめる必要に駆られた結果今日のような位階制度がもっともふさわしいということになった。

しかし、イエスが語ったことに帰るなら、共に歩む教会ではなくなりつつあるのではないか。「秘蹟に与れない信者は罪人」として実質的には「教会から排除されている」ことになるからだ。イエスは誰をも排除しなかったのだから、真剣に考えなければならないとボクも思う。日本の教会はどこに行きたいのだろうか。

キミはどうしたいの?

キミはどうしたいの?

 

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