付き合いが長いわりには馴染めない文化の違い

告白

ココナツ団子。甘くて僕ごのみ。

養成プログラムへの言及もないまま終わりそうだが、議事録に残らないことを書きたい。その一つが肥満。「ファーザー、糖尿」と言って注射器セットを開いて見せたのは、現地代表の奥さん。彼女の神父さんが糖尿病で注射器を届けに来たのかと思ったので、「あなたの神父さんが?」怪訝な顔をすると、糖尿病 いう英語がわからないらしいとでも思ったのか、「シュガーのことよ」というから、「あなたの神父さんが?」 再度聞き返すと、「あたし…」笑いながら立ち去った。ファザー いうのは僕への呼びかけだったと気がついたが、自分が糖尿病持ちということをどうして僕に打ち明けたくなったのか分からないが、「やっぱりそうだった!」

美味の誘惑

これもかなり甘い。リンゴのような大きな木の実かが原料

病気にしたいわけではないが、彼女だけでなく、近隣の代表も超肥満。杖を使っている人もいるほど。糖尿は大丈夫だろうか。人事ながら心配していたのだ。10時や 3時のおやつに出るものは目頭の辺りが痛くなるほどに甘みを利かした紅茶だったり、ココナツのスイーツやひき肉にチーズを混ぜた丸い一口サイズの揚げものだったりする。いずれも美味。だから、パクパク みんな良く食べる。「司教さんはお腹空かないの?」あと2時間弱でお昼だというのに、おやつに行かないと心配になるのか予期しない質問がきたりする。甘い物が大好きな自分としても取り過ぎの感を否めないが。

他の命に生かされて

カシュナッツをカレーで煮込んだもの。かなりキツイ。

もう一つ気になるのが、食べ物を無造作に残す人が多いこと。食前の祈りで、「…貧しい人にも…」と高らかに歌うわりには一貫性がない。そうでなくても、もったいないの精神は感じられない。「人間は他の命を頂いて生かされている」と地域の子供達に教えている友人神主さんが聞いたら何というだろうか。「他の被造物は人間のために造られた」いう聖書の理解を日本的に?深めたのがラウダート・シと言っていい。そういえば、昨日の夕の祈りは自分の体のいろいろの部位を触って、すべすべ、暖かいなどありのままの自分を感じようとするもので、自分探しに明け暮れていた若い頃愛用した「東洋の瞑想とキリスト者の祈り」の著者アントニオ デメロ神父からのもの。

反ラウダート・シ

二階には24時間聖体顕示がなされている

こうした祈りが目指しているのは、自分を取り巻くすべての物、環境、出来事を拒むことなく先ずは受け止めるようになるということ。食べ物を無造作に残すというのは、食べることを拒んでいることになるわけでラウダート・シの思想にもそぐわない。 中学生の年齢ほどの痩せた 2人の少年は学校に行くこともなくホテルの下働きをしているのではと胸が痛むが、自分でお代わりにけばいいのに、これまた無造作に頼んでいる。同じアジアでも生き方の違いにまどうことは多い。

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