コミットメントが結果への約束できちんと結果を出すと腹をくくって出ていく営業マンの頼もしさ

目からウロコ

「その気になってとりくむ」という意味合いで「コミットする」などと言ったりすることがある。その名詞形がコミットメント。教会用語?では献身とかの訳をあてる。あるいは、「自分を賭ける」という意味合いで使われたりする。今日読んだビジネスで成功を収めた人の本では「結果への約束」とか「腹をくくる」という意味に理解されていた。これまで、そんな風に理解したことがなかったのでとても新鮮に感じたので早速、辞書で確かめてみた。なるほど、まず出てくるのが約束。二番目が献身。大げさだが、目からウロコ。またまた大げさだが、次々と新しい展開がボクの中で始まった。

腹をくくる

営業マンにとっての約束がたんに「待ち合わせの約束」でないことを知って、妙に納得した。それに、「腹をくくる」には会社の命運をかけて一大取引に臨もうとする営業マンの「よしやるぞ!」という覚悟のほどが伝わってくるようで思わず身が引きしまる感じだ。やはり辞書に当たると、「腹をくくる」は「覚悟を決める」とあって、世の人々の現実的な理解の仕方に感じ入った。同じ外来語を口にするにしても明快だ。「結果への約束」と言われると、どことなく翻訳の臭いはするが、それ以上に覚悟のほどが伺えて頼もしい感じが勝る。その点、冒頭の「その気なって取り組む」はどことなく漠然とし立正佼成会の機関誌佼成てつかみどころがない。

掘り下げ不足

もう一つ、なるほどと思ったのが、アイデンティティ。書者は、「理念」と言い切る。そしてこんな風に理解している。何のために仕事をするのか、会社は何によって成り立ってきたのか。会社経営の源流は何か、などといったことを掘り下げて行き着く理念、いわばアイデンティティ。この言葉もよく使うが、“私が私であること”あるいは“自分らしさ”などと訳している。それはそれでいいのだが、そこには、自分を掘り下げていったという過程は感じられない。そういう作業なしに“自分らしさ”と言われてもやはり漠然としている。我が足元を見るに掘り下げ不足を痛感。

腹をくくっているか?

どうしてこんなことをだらだら書いているかというと、お友達から届けられる「会長法話」を読んだり、お寺の前の掲示板に書かれた分かりやすい法句を読むにつけ、「我らが信仰は翻訳の信仰か…。」嘆きたくなることは多い。世の中の人々をうならせる聖書のみ言葉は多いのだが。あれ、「司祭が腹をくくるとは?」で書くつもりだったのだが。ま、いいか。

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